白い幻、おまえのいのち
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そういえば沼町は、例の発電の最初の挑戦を受け入れた地区だ。
どのみち運転が終われば交付金も終わってしまう。それ以前に沼町は自立性を失いかけていたし、半田さんが晴天地区に来たのも恐らくそれと関係がある。
今年度ついに、晴天鉄道沼町線の廃線が決まった。
これで沼町から天つ空へ向かうルートは私鉄一本になってしまった。現実的には、さほど問題ない。しかし大手鉄道会社が地区一つを捨てたように見えるこの構図、なんともいえない。そのうえ私鉄の天つ空駅から晴天鉄道天つ空駅までは徒歩20分もの道のり。不便この上ない。
同じく南の深淵線が見捨てられていないのは、深淵線終点の深淵が、ニシとヒガシにまたがる研究都市の入り口だからだ。
要するに晴天鉄道は、田舎に期待を抱かない。利用者数を考えても、他の線と比べれば「なくてもいいんじゃないの」という規模。痛くも痒くもないということか。
余計に寂しい。
総被曝線量を抑えるために発電所は田舎に立地する。これは公な規定で決まっていることだ。だからこそ、上層が、下層を理解するという点でしっかりしていなければ、まず事業は突き進むもの。そのくせ終わっても、全てが残る。残骸がたたずむ。沼町線廃線の理由の一つに、実はこれもある。炉は解体されたが使用済み燃料は消えない。差し当たり保管されているそれを意識しないでいられるだろうか。沼町は地の果てと並んで、間違いなくニシに敬遠されている。
今年で21。
大学には相変わらず興味がないので、来春の就職を目指すことにした。
地方公務員も悪くないが、今から勉強を始めるのは少し期間がきつい。もともとあまり出来も良くなかった。が、来々春まで耐えられる自信もない。そこまで地方公務員に惹かれているわけでもない。それに現実的に考えて、公務員試験突破は俺には難しい。
しかし正直なところ晴天鉄道だけを受けて、その1社に受かって、その1社に行ってしまっただけあって、今のような状況になると何をどう選べばいいのか分からなかった。そこで俺はなぜか半田さんに相談していた。半田社長がテレビに出たのがいいきっかけ。おかげで連絡が取れて、その後もほっそりと交流が続いていた。
半田さんは聞くところによると西州大卒で、なかなか頭のいい人なんだそうだ。年齢からして短大卒なのかと思ったのに、四年制大学の人だった。早期卒業でまず一年早くて、早生まれのせいで一見一年若い。
その割に「興味があったから入った」などとあっけらかんに言う半田さんはちょっと変な人だ。他の企業ならもっと上に行けるんじゃないかと思わなくもないが、多分彼は名誉とか地位の優先順位が格段に低いんだろう。
就職について相談したいと告げたら、じゃあいっぺんゴハンでも一緒に食べる?と返された。大丈夫なはずだ。私服なら晴天の人でも。実証済みなんだ、これは。行ける。
某日夜、五番街。半田さんの仕事の関係で、やや遅い時間帯となる。
彼と入ったのは目についたイタリア料理店で、こぢんまりした古い所だった。二種類のピザを頼んで、待つ間、なんか照れる、と半田さんが笑った。
「え、なんですか」
「ちゃんとしゃべったことないから」
確かに面と向かっては、挨拶を交わしたことぐらいしかなかった。そのうえ俺はあっけなく辞めてしまったし、こちらもまさか再会して向き合って晩飯を頂くことになるとは、しかもまた半田さんという人と。
それにしてもそんなことで照れる半田さんは、根がいい人に違いないと、俺は温かい心持ちになった。
「人見知りしますか」
「する。すっごいする」
「意外ですよ」
「松はあんまりしなさそう」
「どっちかというと対人的には強いです」
店員がピザを両手にやってきた。一つは生ハムとルッコラのピザ、もう一つはきのことチーズと半熟卵のピザ。チョイスは前者が俺で、後者は半田さん。半田さんはきのこか半熟卵が好きなようだ。
「就職したいって」
二種類を皿に取りながら半田さんが言う。
「松ならなんでもできそうだよね」
何を言うかと思えば。
「俺バカだから無理ですよ」
「しゃべり方とか、頭よさそうだよ」
「んなこたないです」
ホームの放送に騙されてはいけない。あれは仕事だったから、それらしく聞こえていただけだ。歯切れよく、必要最低限ギリギリの情報だけを簡潔に、トントンとしゃべること。自分の中で自分が課していたルールだ。
「何かやりたいこととか、あるの?」
半田さんがきのこピザの一切れを食べ終わる。
俺は答え切れず、生ハムピザを前に手が止まった。どうかなぁ、と熱でへたったルッコラの葉を見つめる。
まず自分の興味の範囲がなんであるかを知ること。
「業界でもいい、職種でもいい、放送がやりたいなら、放送する機会の得られる職を検索すること。興味が多岐に渡るなら、列挙した業界や職種に順序をつけること」
次には、自分を知ること。
「長所と短所を挙げる。それぞれについて分かりやすく書き出してみる。更には、日常における具体的な行動例を示して、長所短所を聞き手に分かりやすく説明できるようになること。短所については改善の方法を考え、これについても考えを深めておくこと」
ピザ二枚はあっさりなくなった。少し、物足りなかった。
それが顔に出たのか半田さんにもう一品頼もうかと尋ねられ、反射的に首を振る。しかし彼は構わずメニューを開いた。や、いいの、おれもちょっと足りないから。苦笑しながら彼は言う。
そうして頼んだ三品目のクリームソースパスタでめでたく満腹になり、胃が出っ張っているのを感じながら二人、店を出た。飲食店や土産物屋が肩を並べる五番街。日が暮れた後に特有の陽気さを携えて、通りを人々は歩いている。
バス停まで徒歩五分だ。
「ちょっと散歩しない。食休みに」
来た道を戻らず、半田さんは脇道に入った。俺は言われるがままについていく。店の数とともに明かりの少ない小道だ。確かこの方向は南。だいたいは南へ歩くと、最後は海辺に出る。
「……半田さんは」
「ん?」
海はまだ見えない。小道は僅かに屈曲し、先にある方角が曖昧になる。
半田さんの声は、交わしたことのある挨拶と同じに優しげだった。こういう話し方がいいな、と俺は自分を改革したことがある。彼が手本だった。
……半田さんは。
「なんでそんなに優しいんですか」
「ええ」
びっくりした直後に彼は笑った。やや抽象的な言い方だったかも。
「俺、そんなに仲良かったわけでもないのに」
「接する機会が多かったら、仲良くなってたと思うけど」
「そうですか?」
「そう。おれはもともと松のことは好きだったよ」
ちゃんとこっちを見てそれを言う。この人は、すごいなあ。
「若いのに落ち着いてるしね」
「そんなことないですけど」
「おまえ、自分の中のハードルが高いだけなんじゃない」
くすくす。
彼は笑った。少なくともおれからは大人っぽく見えるよ、とも補足しながら、くすくす。この人は、いい先輩だ。
「おれ駅員の頃もよくテンパってたから。些細なことで」
「想像できない……」
「ほんとに。いまだに、時々、だめなの。だから松のまとってる雰囲気は、うらやましいよ」
くねくねと行った後に直角の道を曲がると、ふいに視界が開けた。潮の匂いがする。夜空には雲ひとつなかった。
ふと半田さんの背を見やると、肩甲骨が月明かりで影をつくっている。華奢な後姿。もう少し太ってもいいのに、とおせっかいなことを思う。
彼の小柄さは社長の肩幅を髣髴とさせた。記事も思い出された。正義感は祖父譲り。大丈夫だから、と女性をなだめる車掌。
接する機会が多かったら仲良くなっていた。のだろうか。だとしたらすごく嬉しい。そして、その可能性の場から既に退いている自分が悔しい。
それでも彼はこうして会ってくれる、いい先輩なわけだけど。
「――あの」
「なに?」
「答えたくなかったらいいんですけど」
「はい」
「駅員の頃に人身の処理やったことありますか」
無意識に、語気が強くなってしまった。
半田さんは丸く目を見開いて驚いたが、やがてその口を開く。
「ないんだ、おれ」
ない、のに、彼の声は寂寥を帯びている。
7月2日、ほぼ丸い月が空に浮かぶ。
「駅員やってた期間も短かったし、臨海駅だったから。あそこのラッシュは晴天と比べたら微々たるもんだしね」
「……そうですか」
「だからおまえの苦しみは分からない。ほんとの意味では」
半田さんがじっとこちらを見ている。注意を惹く語気だが、元気はなかった。
「……他人と分け合えればいいのにね」
月明かりの下で彼は、泣いているような顔で笑った。涙も出ていないけれど泣いているように見えた。瞳が奥底まで澄み渡っているようだ。明るい。明るくて深く、とても暗い。
きっと同じことを他の誰かに言われたら、気軽にそんなことを口にするなと怒鳴ったかもしれない。なのにどうしてこの人が言うと本当に本気に聞こえるんだろう。文字通り本気だから?
暗いから?思いつめるタイプだから?
見た感じ半田さんは、俺を自分に置き換えて苦しみを充分理解しているようだった。
半田さんは暗く見えた。明るく振舞う、暗い人に見えた。そして今にも鎧が崩れ落ちそうな、ギリギリの線にいるような。
――もしかすると俺は、他人から見るとこんな風に見えているのか。
「松からメールが来て嬉しかったよ」
半田さんの髪が潮風に揺れている。
「今日、会ってくれたのも」
全身がかゆくなるような言葉なのに、本心に聞こえる。
逃げ場のない視線。
包み込むような優しさ。
鏡の自分のような暗さ。
会話が続かない。気力が続かない。
誰も助けてくれはしないのだと思った。助けるとすればそれは俺自身なのだと思った。こうして前向きに思わせてくれるのは他人でも、結局最後に俺を救うのは俺自身なのだ。
真っ黒な沖合いを小さな漁船が横切っていくのが見えた。
「……半田さん」
俺は考え込む前に、口にした。
「電車乗って晴天まで帰ります…付き添ってもらえませんか」
半田さんはぴったり俺の隣について歩いた。絶対に触れないが絶対に離れない。俺より先を歩くこともなければ俺より後ろを歩くこともない。
今この人は鏡なんだと思った。もう一人の俺なんだ。もっとも理解しようとしてくれている、もっとも俺に近い心情の、他人。
千羽鶴駅で切符を買う。
駅員を見ないようにしながら改札を抜け、晴天行きのホームに下りていった。
ちょうど入線してくる晴天行き普通列車。
白線の内側に並んで、足元を見つめる。膝が少し、震えそうだった。
「松って誕生日いつ?」
ふと、半田さんが話しかけてくる。
すぐそこに滑り込んでくる車両。速い。それにとても、硬そうな。
「10月4日です」
「えっ」
「え」
「えーと…彼女と一緒」
ほほう、彼女?
「彼女いたんですねえ」
「車掌区一緒だよ」
「えっ車掌!?」
「そ」
ドアが開いて、乗り込んだ。神経質にくっついてロングシートの端っこに座る。まもなく発車。
「誕生花っていうのがさ」
「――花?」
「そう、花。それが、オニユリなんだって」
「どんなんですか」
「わかんない」
そこで一度笑いが起きる。
「でも花言葉が、荘厳、なんだって」
「ソーゴン…」
「漢字書ける?」
「書けるわけないでしょ」
「ははは」
そうごん……自分のイメージじゃない。買いかぶりだな。悪くはないけど。
「半田さんはいつ生まれですか」
「3月8日」
「花、何ですか」
「チューリップ。しかも赤いの」
「赤いチューリップ」
「花言葉がねえ、恋の告白」
「こっ」
赤いチューリップも意外に似合っていると思ったが、花言葉までそんな乙女なものなんて。これが似合うと言うわけにはいかない。
顔を伏せて声を殺して笑っていると、後頭部にビシとチョップを食らった。
「だ、だって、恋の告白」
「キミさあ、意外に似合うとか思ってない?」
「ええっいや俺は」
と言いながら笑っているからまた説得力がない。別にピッタリだとは思っていないが、全然似合わないとも思えないのだが。
「他の人のも聞いたんだけど…忘れたなあ」
「なんか面白いのとかありました?」
「あったような……気がする」
その時、隣駅の雲町(くもまち)を通過していた。この次が晴天。半田さんが記憶を探る間少し黙ったので、突如俺は落ち着かなくなった。
きょろきょろとすると、異常に気づいた彼に肩を叩かれる。振り向くと、彼は穏やかに微笑した。
「思い出した、葛西さんだよ。あの人、5月9日で、シロツメクサでさ。花言葉が、私のことを思って、っていう」
「わたしのことを…おもって?」
「私のことを思って」
「……」
ぶっ。
似合わない!思わずけたけたと声を立てて笑った。
いや案外寂しがりなのかもよ、と半田さんがいかにも生真面目に言うので、余計に面白かった。
まだつらいでしょ、と晴天の改札を出てから彼に言われて、それを合図にしたように手が震え始めた。なんてことだ。しかし俺は、一応、電車に乗れたのだ。これは大きな進歩である。
別れ際に半田さんは、でもお前ならいつか乗り越えられるよ、と笑った。どうしてまたそういう言葉、照れずにまっすぐ言えるんだろう。でも説得力はあった。半田さんが言うなら、許せる。
その晩、いつも通りの時間に寝れた。
翌日、ちょうどいい時間に起きた。体がなんとなくすっきりしていた。怖い夢も見なかった。
見ると掛け布団を蹴っ飛ばしている。もう夏だ。
ふいに、種村に会いに行こうと思った。トイレに行って朝飯を食って、パソコンを立ち上げてネットで調べると、種村の誕生花はヒマワリだった。花言葉は「光輝」とある。何て読むんだろう。コウキ?
確か県立図書館の傍に一軒花屋があった。
財布をポケットに、すぐさま玄関を出る。どこ行くのと親の声がついてくる。
「ちょっと墓参り」
ドアに向かって声を張り上げて、次の瞬間少し泣きそうになったが、それもすぐに引き下がったので俺は歩き出した。
種村が死んで初めて、墓と向き合う日になった。
よく晴れていた。ヒマワリも、よく似合う。
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