白い幻、おまえのいのち


4

 同僚に、あの二人できてんの、と聞かれたことがあって、それがすこぶる気に入らなかった。


 結局あれから俺は半田さんの家に行けていない。葛西さんに全て押しつけて、どうなったのか待つばかりで、何一つ半田さんに力は及ぼせない。
 葛西さんと偶然会ったのは、臨海の乗務区の詰所だった。その頃はもう7月中旬になっていた。
 目が合った葛西さんにちょいちょいと手招きされ、詰所の隅に行く。即座に、ごめん、と言われた。ドキッとした。
「納得させられたかどうかは微妙だわ。一応説得したんだけど」
 ――そんな。この人が言ってもだめなのか?
「でも、一人では絶対行くなって言っといたから。どうしても行くときは俺を連れてけって。そしたらあいつちょっと怯んでさあ」
 愉快そうに彼は話す。俺も少し、怯んだ。それを聞いて。
 どうしてそんなことが言えるんだ?自分も一緒に行くなんて。親友だから?
「……そんなこと言ってほんとに行くことになったらどうすんですか」
 理解できないんだ。いくら仲がいいったって他人だろ。たかだか付き合いも1、2年だろ。なんでそこまで言えるのか不思議でたまらない。俺には彼の発言が、見栄に感じられたほどだった。そんなのはかっこつけだ、と淡く苛立った。
 だからなのか。俺の声に厭味のような空気が混ざったのは。
 そしてそれを見抜いたのか、彼は半笑いで返した。
「どうっておまえ、行くよ、そりゃあ」
 俺は葛西さんのその時の顔が気に入らなかった。
 軽蔑する俺を更に軽蔑するその顔。同時に、悟りでも開けそうな静かな顔つき。何も怖れていない視線。ムカつく。
「……そうですか」
 俺は踵を返した。自分でも、こんな些細なことでなぜ怒るのかわからない。でも確かに、ムカついている。
「鬼頭」
 呼び止められた。振り返ると、彼は相変わらず余裕のある笑顔。
「なんならお前も、行くって言えよ」
「――なんで」
「半田がお前を工場島まで付き合わせるとも思えない」
「……じゃあどの道意味ないじゃないですか」
「だから言えばいいんだよ」
「なに言って……」
「妬くぐらいならちょっとでも働きかければ?」
「……」
 もっともだ。こんなに心配するなら。
 でもこの人、この前と言ってることが違う。前は「教えてくれただけでも充分だ」とかなんとか言っていたくせに、今は俺も巻き込もうとしている。なぜ?もしかして本当に俺なんかが抑止力になるとでも?
 冷静に考えて、一番仲がいい葛西さんが言ってダメなら、俺が言ったってダメなんだ。だからあんたに頼んだのに。
「俺の言うことなんか聞いてくれないでしょ、半田さんは」
「聞くかもよ」
「なんでそんなことが言えるんですか」
「逆に、なんでおまえは身をひくわけ」
「だからそれはあなたの方が仲いいから」
「半田が好きなのは俺だけじゃないでしょ」
「そういう問題じゃないです!」
 その一瞬で、詰所がしんとする。全員がこちらを一瞥し、意識的に見ないようにと視線を泳がせている。
 頭に血が上った。
「――なんかあったの」
 葛西さんが少し、音量を落とす。なんかって。あんたに関することだ。
 この人ホモなんですか、などと言ったのだ。半田さんに向かって。葛西さんの写真を指差して。
 しかも花見に行った帰りは、土岐さんの女装を見て微妙な反応をしてしまった。確かにあの人は綺麗になっていた。女だと言っても通るだろう。しかし、土岐さんの女装が本気すぎて、俺は少し引いたんだ。あの人が女に憧れていると聞いたときも、気色悪いと思ってしまったのだ。
 半田さんはそうは思わないらしい。よく似合ってるし、いいと思う、と素で言っていた。俺と半田さんの違いは何だろう。育った環境?なんで俺は、あんな風に偏見を持たない見方ができないんだろう。
「……俺はろくでもないんですよ」
「なにそれ」
「しかもろくでもないってバレてるんですよ半田さんに」
「半田からおまえの悪口聞いたこととか一切ないけど」
「それは半田さんの性格がいいから…」
「おまえは見習いの頃からしっかりしてんじゃん。放送も絶対噛まないし。半田もそうだと思うけど俺おまえには一応一目置いてんだよ」
 ぽん、と微笑とともに肩を叩かれる。
 俺は咄嗟に一歩下がって避けた。明らかに肩が怯えたように揺れてしまった。やってしまった。ほら葛西さんも、目を見開いている。
「……す、すいません」
「……潔癖?」
「――ちょっとだけ」
 嘘だ。別にそんなんじゃない。
 ホモ発言事件で、仲直りした後、半田さんがシャワーを浴びている時にもう一度ファイルを見たのだ。小さい封筒のようなものが挟まっていて、この前に発見した写真とともに2、3枚ほどがまとめられていた。
 必ず一人の男が写っている。泣きぼくろのある男。どこかで見たことがある。もしかすると同じ職場の人。
 葛西という人はこの写真を、一人の時にも見たりしているんだろうか。理解できない。ホモじゃない、と半田さんは言っていたが、だとすると何?だって絶対これで抜いてる。葛西さんは好きなんだろ?この写真の人が。だったら、抜いてる可能性高いじゃないか。
 俺は男を好きになるという感覚とは無縁だ。だから想像がつかない。想像がつかないから敬遠する。相手が女みたいに綺麗で、かわいらしい、とかならまだ理解できるけど、あの泣きぼくろの人はどこからどう見てもガタイのいい男だし――

 葛西さんが男を好きになる人なのに、なんで半田さんはあっけらかんとして一緒にいられるんだろう。俺が女だったら、あれだけ一緒にいたら絶対半田さんを好きになると思う。その危険が常に葛西さんにはあると思う。だから半田さんはものすごくのんきだ。
 そんなことを考えていたから、ある日目撃した引き継ぎで葛西さんが半田さんにハグするのを見て、唐突に強い苛立ちを覚えた。
 なんなんだあれは。敬礼直後に抱きつきに行って。
 半田さんも半田さんでへらへら笑っているし。
 ――やっぱり俺は潔癖なのかもしれない。男とベタベタしたいなんて思わないし、ベタベタしているのを見ても理解できない。だからといって。

「いっつもベタベタしてるんですか」
と……
 言ってしまう日が来ようとは。
 詰所の、前である。さっきハグしていた時のような甘えた笑顔は引き下がり、どこにでもいるフツーの男。葛西さんは背が高い。俺は見上げながら、喧嘩を売っている。
「なにが?」
 きょとん、と彼は目を丸くした。
 なにがって。
「半田さんに。さっき抱きついてた」
「ああ、うん」
「いっつもああいうことしてんですか」
「まあ、しょっちゅう」
 しょっちゅう。だと。
 腹が立つ。そんなあんたも、それを受け入れる半田さんも。
「制服ん時に人前でああいうこと、しない方が」
「ただの引き継ぎだろ」
「普通じゃないです」
「……それで?」
 ああ、さすがの葛西さんも今少し怒っている。目がわずかに据わった。しかしもう、言い始めると止まらない。
「が、ガキじゃあるまいし、ああいうことしないでください」
 ホモ呼ばわりしそうになったのを抑えて、俺は訴えた。多分顔も引きつっていただろう。葛西さんのくちびるから笑みが消えた。
「大きなお世話だよ」
 怒っている。もう、取り返しがつかない。
 そして最後に俺が吐いた一言で、葛西さんがキレた。
「あんたのせいで半田さんまでホモ呼ばわりされてんですよ!」


 それは、本当のことだった。同僚に、あの二人できてんの、と聞かれたことがあって、それがすこぶる気に入らなかった。
 最初はそれでも、それほど気には留めていなかった。同じようなことを他の同僚二人にも聞かれたので、さすがに意識に上ったのだ。
 葛西さんは本当にそのケがある。半田さんには三笠さんがいる。
 しかしあのカップルは普段外で会ったりしない。それは俺にとっては助かることでもあるんだが――その件は今は置いといて。
 半田さんがホモなイメージを持たれること、そして俺も半田さんと仲がいいからとばっちりを食うことになること……結局俺は自分がかわいいってことか。最悪だな。でも、半田さんが誰かに敬遠されるというのもすごくムカつく話だった。
 しかしまさか葛西さんに面と向かってああいうことを言って、しかも思いっきり顔を殴られるとは、意外な展開すぎて自分でも面白いくらいだった。
 おかげで反省文書を各自提出する運びになり、俺は鼻血が止まらなくて、その日一本残っていた乗務を交代するという緊急事態になってしまった。乗れなくもなかったが、多分客の注目の的になる。ただでさえ職場でも注目の的になったのに。今の時代ブログやmixiなんかで書かれちゃたまらない。交代できたのはラッキーだった。
 詰所の仮眠室で横たわり、鼻を冷やしながらぼーっとする。
 殴られて良かった気さえしていた。あのシーンですら葛西さんが怒らずに「それで?」などとすまして言っていたら、気が収まらなかった。
(……でも、なんかもう、俺終わりだな)
 葛西さんの口から半田さんに伝わるだろうか、今日の一件は。  別に内緒の話題でもないし、二人セットでホモ呼ばわりとかいう事実があるとなると、葛西さんは半田さんに言うかもしれない。いよいよ俺は人間関係的に終わりだ。いっそ早く現場を離れたい。もう、誰の顔も見たくない。
 それからしばらく横たわっていた。
 横たわりながら、色々なことを整理していた。

 1、半田さんの部屋で例の葉書を見つけた件。
 心配してるんですよと告げても、半田さんはこっちを見なかった。ただ口が、うん、とかなんとか言っていただけ。あの人は俺と向き合う気なんてない。それが分かって、腹が立った。

 2、葛西さんに相談した件。
 どちらかといえば、もともと接するのを避けていた相手だったので迷ったが、今はこの人に頼るしかないと思って電話した。
 葛西さんという人は結構優しい人らしく、俺が脈絡なく話し始めても、順を追わせるように導いてくれた。その上こんなことしかできない俺をしっかり正当化して、例まで言ってくれた。すごく優しい人だ。羨ましいほどだった。
 ずっと警戒していた。ホモなんだと思って。でもよく考えたら、俺が全ての女にいちいち恋をしないのと同じく、葛西さんも普通なのかもしれない。そうだ、冷静に考えるとそうなんだ。同性愛が珍しいのと、そのイメージがエロい方向に偏っているせいで、俺は冷静にあの人を見ることができなかった。

 3、葛西さんが「行くときは一緒に」と言った件。
 なんでそんな、一緒に心中するようなことを言うんだと思った。それじゃ頼んだ意味がない。
 体に悪影響が出かねない場所に行くのに、まるっきり怖くなさそうな葛西さんに嫉妬した。そして、何考えてんだ、と苛立った。自分を大事にしないやつは見ていて腹が立つ。見栄や名誉のために無茶をするやつも腹が立つ。そういうのは所詮、感情や周囲に流されているだけに決まってるんだと。

 4、葛西さんが「妬くぐらいなら動け」と言った件。
 妬く、というのは、葛西さんに対して、という文脈。
 でも正直嫉妬ともなんとも言えない、むしろもっと薄汚い感情だったような気がする。
 自分が動いても何も変わらないと分かっている、と自分を納得させようとしていた。これは1で半田さんがあんな反応をしたせいだ。俺はいじけてるんだ。
 そのくせ「行くんなら俺も連れていきなさい」と言う度胸もなく。もっとも、半田さんにとって友情レベルでは葛西さんより明らかに劣る俺が、同じセリフを言ったって効くはずがない。
 当日、ほったらかしにされて終わりだ。

 5、ハグの件。
 ホモの噂に半田さんが巻き込まれるだけでなく、そんな半田さんと仲良くしている俺まで、やがてホモ疑惑をかけられるんじゃないかという予測に基づき、立腹した。
 葛西さん一人を悪者にするのは楽だった。
 半田さんも俺も悪くない、と思っていれば、それでいいのだ。

(……最悪……)
 まれに見るクソガキだ。自分は。こんなんでちゃんと社会人なんだから笑える。ひどい出来だ。
 鼻骨折れてないかな、と氷をよけて触れてみた。感覚はなかったが、形は普通。曲がっている様子はない。
 派手に殴ったせいで、葛西さんの白手袋に俺の鼻血がついていた。
 俺は脳天が揺れてうずくまった。鈍い痛みに鼻血が出始めた。鼻がダメになるかと思った。あと頬。正確には、拳が入ったのは頬だ。キーンとした痛みがずっと頬にわだかまっている。
「…………おい」
 葛西さんがそのうち、声をかけてきた。俺は動けない。まだ血が出ている。さすがに怖くなって、うずくまった状態から更に頭が揺れた。
「鬼頭」
 ついに葛西さんはひざまづき、顔を覗き込んできた。
 その顔にもう怒りはなかった。どっちかというと面食らっていた。
(この人悪いひとじゃないな)
と、今更ながら俺は思っていた。そんなもん最初から分かっていたことなのに。
 それから鼻血が収まるまで、二歩離れたぐらいの距離にずっと葛西さんは控えていた。そして休憩時間が終わると、黙って点呼に向かっていった。





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