白い幻、おまえのいのち
2
今年で29になった。もう少し早くに事件が起きていれば(28)と印刷されたのに、惜しいことだ。
例のA社の記事で一躍有名になってしまったらしい。
誰と乗務がペアになっても「もしかしてこないだの?」と聞かれる。特に半田は社長ときわめて近い血縁関係にあるということで、俺以上の人気ぶりだった。
事件後まもなく半田とペアになった時には、顔を見合わせた瞬間笑ってしまった。
おつかれさまで、と半田が言った。まったくその通りだ。
確かその日の夜に、珍しく葛西からメールが来ていた。軽傷って大丈夫でしたか?とのこと。
(懐かしい)
葛西とは随分接触していなかった。少なくとも葛西が車掌になりたての頃は、よく連絡を取り合って昼飯を共にしたり飲みに出かけたりしたものだったが…
保険屋の小畑とは二年ほど付き合っていた。もしかするとこのまま結婚できるかもしれないとさえ思っていたのだ。だからあっさり小畑に振られた時には絶句した。しかもそれが、他の男に心が移ったからだという。
その男が葛西だったというのはどういう偶然なんだろう。もしかすると俺が葛西と一緒にいることが多いから、小畑の視界に葛西が入ったのだろうか。
それにしても小畑は、自称の通り、面食いのようだ。俺と付き合う時だって向こうのナンパだった。ナンパなんて一方的なものだ。性格も知らないのに、小畑はひとめぼれしたなどと言った。葛西の時もそうだったのだろうか。顔が好みならなびくのかお前は。付き合っている男がいるのに?
しかし一概に咎めるのもどうかと思い始める。外見だけで惚れるのかという責めは、歳を経るにつれて説得力を失ってきた。それはともかく人それぞれで、人の選び方に優劣をつける必要もないのかもしれない。
なにしろ俺はまだまだ小畑が好きだったので、余計に怒ることができなかった。いや、一応は怒った。しかし怒った次には、「考え直せ」と説得を試みている。そんな調子だった。
小畑は、惰性なのか知らないが、別れた後も俺のメールによく付き合っていた。もしかすると、葛西がダメだった時の保険。世の中そんなものだと俺は特に咎めることもしなかった。
で、問題は、葛西と小畑が二人で飲みに行った日のこと。
葛西はすぐに赤くなる。あいつは酒に弱い。ついでにあれでなかなか女も好きだ。
酔った葛西は、とても、かわいかったのだそうだ。手を握ってきたり、子どものように甘えてきたりして、頼むと下の名前も呼んでくれたということだった。
そういう細かいことを俺に報告する小畑もまれに見る無神経な女だが、葛西の酔った行動にとらわれて彼を嫌悪する俺も俺だ。
決定打は、その夜葛西の部屋で、二人が寝たという事実だった。
あれは今でも思う。知らない方がよかった。しかも寝た翌日から葛西が小畑に対して音信不通になったというので、ますます腹立たしかった。
それを知る日まではなんとか嫌悪を押し殺して、葛西と接していた。「多少そっけない」くらいだった。しかし音信不通とはどういうことだ。人としてそれはどうなんだ。よって翌日から、完全な「冷戦」状態に突入する。
反面俺は葛西に問い詰められやしないかと恐れていた。
なんで無視するんですかとか、その程度は普通言うものだろう。しかし葛西は何も言わなかった。自然に、離れていった。俺は内心ほっとしながら、葛西のその振る舞いにも淡い苛立ちを覚えていた。
情勢が動いたのはおよそ二年後。友達であったことすら忘れるほどの年月を経て、思いがけず冷戦が解かれる。
更衣室で二人きり、例の如く無視したが、葛西は思いつめたような声で突然しゃべり始めた。
それは葛西が車掌になりたての頃に聞いた内容と同じもの。
「俺、池町さんみたいな車掌になりたいです」
葛西はそう言っていた。もう三年も前のことだった。
その言葉を、まさかまた聞くことになるとは。しかも喧嘩のまっ最中に。そして葛西のその言葉で、凍っていた心があっけなく溶かされることになるとは。
葛西は一通りしゃべって唐突に更衣室を出て、まもなく嘔吐した。驚いた。なんなんだお前は。だが葛西はそれどころではなく、いくら待っても嗚咽が止まらない。俺は不安になった。
林医師に聞いたら「風邪ですな」とそっけなく言っていたが、本当だったのだろうか?葛西は随分ひどい有様だった。
よくよく聞くと、もともとそれほど体の強い人間ではないのだそうだ。確かにヤツは細い。冬はまだ着膨れするが、夏などは薄着になっていよいよ平べったさが際立つ。
葛西はその晩、詰所の仮眠室に泊まった。一人にさせるのが不安だった俺の判断だ。
翌日、なにとなく見覚えのあるアドレスからメールが来た。
アドレス帳から消していた葛西のメールアドレス。恐らく三年前から変わっていない。rechiが組み込まれている。
レチは、「車掌」の略号だ。いつ頃このアドレスを決めたのだろう。そんなに、車掌が好きか?
葛西が脱線事故で入院したことは、事故の翌日に知った。車掌が重傷とは聞いていたが、まさか葛西だとは思わなかった。
朝でアケたので顔を見に行こうとすると、詰所で鮫島につかまり、リンゴを託された。妙なことに似顔絵が描かれており、病院へ向かう電車の中で一人噴き出した。
顔を見ずに帰る気はなかった。とにかく一度、言葉は交わさなければと思っていた。
だから屋上まで追ったのに。
葛西は半田といた。話が聞こえてきて足を止める。そして体が、硬直する。
好きだったとは、どういうことなのだろうか。
葛西は、男も女も関係なく好きな体質で、三年間ずっとどんな女よりも一人の男が好きだった。男には彼女がいるそうだ。その男には憧れているとだけ言ってある。それ以上言う気は、今後もない――
俺だ。確信した。葛西が三年間好きだったのは、俺だ。
混乱した。脇や背中が汗ばむ思いがして、一目散に逃げてしまった。リンゴはベッドに置き放ち、早足で病院を出て、その後は用もないのに家には帰らずに臨海区の海沿いをうろうろと歩き回った。
――好き?好きって?
考えなくてはならないのに、思考回路が鈍っている。葛西のセリフがただ脳裏を漂い、そのインパクトで俺は冷静さを失っていた。三年間ずっとどんな女よりも。一人の男が好きだった。…小畑を抱いたのに?
いや、小畑を抱いてはみたものの、やはり一人の男が好きだったのだろうか。それで気まずくなって小畑から逃げたのか。可能性はある――いや、葛西が、そう言っているんだ。一人の男がずっと一番好きだったと。
しかし、なぜ俺は確信したのだろう。なぜ自分だと思ったのだろう。初めから知っていた?本当はずっと前から気づいていたのか?
葛西が異常なほどの信仰心でなついてきたことや、酔っ払うとかえって俺との接触を避けていたこと。齋藤と会うと言った時に、小畑を思い出させるような意地の悪い言葉を吐いたことも。
すべてにおいていつも何かがひっかかっていた。しかし、それはありえないことだと信じ込んでいた。葛西が女だけでなく男も好きになれるという可能性を考えたことは、今まで一度もなかった。
(……二年間も耐えたのか)
三年間好きで、そのうち二年間は冷たく当たられて、それでもなお、一番好きだったということか。
そうだ、冷戦を解いたのも、葛西の方だ。もうどうしようもないほど時が経っていたのに。
(長い……)
二年は、長い。気が遠くなる。俺はお前に見向きもしなかった。
ふいに葛西に感情移入した。途端に涙が出そうになった。俺が泣いても何の足しにもならない。無駄なことなのに。
応えてやれなければ結局は、何にもならない。
葛西が退院後まもなく研修施設に入ってくれて、ホッとした。やはり面と向かうとなると俺は恐らく落ち着いていられないので、顔を合わせないでいられるなら断然その方がよかった。
そんな状態だったから、むろんこちらからメールを送ることもない。葛西の方も色々思うところがあるのか、ほとんどよこさない。だからいくら「軽傷」だからといって、メールを送ってくるとは思わなかった。
(元気なのか?コイツ最近)
臨海電車区に配属されて、いよいよ会う機会が減った。どちらも運転士ではペアになることもないし、引き継ぎで一人の知り合いに会う確率も元来それほど高くはない。
(半田がいるから大丈夫か)
保護者的立場に、半田がいる。葛西に何かあれば半田がフォローするはずだ。だから俺は何もしない。もともとできることも、何もない。
――ックシュ。
隣で小さなくしゃみ。齋藤だ。
「……寒い?」
「うー」
齋藤はだいぶ髪が伸びていた。乗務の時は前髪を上げるが、普段は下ろしている。俺は普段の方が好きだった。
差し当たり彼女の肩を引き寄せて腕の中に収める。大人と子どもほどに体格が違った。と、携帯の画面が自然に彼女の視界に入ったらしい。あ、と齋藤は反応した。
「ごめん。見えた」
「いいよ別に」
見られてまずいメールじゃないし。
すると齋藤も一緒にメールを見て、葛西さんか、と口ずさんだ。
「懐かしいなあ。夏以来、私会ってない」
「会わなくていいよ」
「なんで」
「妬くから」
メールを返した。ケガは大丈夫、もうカサブタになってるし、と。送信して。ふと、齋藤の耳が赤くなっていることに気づいた。
「…雪子?」
「妬くんだ…」
「え?」
「望武も、ちゃんと、妬くんだ……」
「…なんだそれ」
まもなく雪子が顔を背けて笑い出したので、携帯を放り出して彼女の体をくすぐった。ますます、笑いが弾ける。
ブブブとバイブの音に気づき、彼女を抱きしめながらメールを見た。「それならよかった」とある。葛西は――もう俺のことはふっ切れているのだろうか。完全に。この八文字を、どんな気持ちで打って送ってきたのだろう。
考えても仕方ない。そこでメールを切ってもよかったが、気が引けたので律儀に「心配ありがとう」と返しておいた。その後は齋藤と寄り添い合って眠った。穏やかな時間だった。
葛西とは、そのまま会わずに、離れていくのだと思っていた。
二年間の冷戦が緩やかに訪れたのと同じように。
葛西はまた、黙って、離れていく。俺から。そして俺は、直面するのを恐れて、追わない。
晴天の詰所で会ったのは翌月の頭だった。葛西はその日最後の乗務が晴天行きの普通列車。俺は晴天線を地の果てから戻ってきて、やはり晴天で乗務終了。
葛西は印象より少し痩せていた。色も前より少し白く感じられるし、肩も薄くなったような気がする。
妙な病気じゃないだろうなと嫌な予感がよぎったが、彼と目が合うとそれは一掃された。葛西の視線は思いのほかしっかりとしていた。病人の目ではない。むしろ車掌の頃よりもずっと落ち着いて、大人びている。
「…久しぶり」
驚いたことに、俺から声をかけた。すると葛西は満面の笑みを見せて、おひさしぶりです、と呼応する。
葛西は口のつくりが大きいから、笑顔が映える。俺には決して真似できない。昔から、この笑顔が少し羨ましかった。
「元気か?」
「元気ですよ。池町さんは」
「元気だよ」
すると葛西は、そっか、と明るく微笑んだ。何がそんなに嬉しいのだろう、この男は。なぜそんなに惜しげもなく笑える?
ちょうど夕食時だった。今日は齋藤と予定が合わず、一人だ。寂しいわけではない。慣れている。
だからそこでなぜ葛西を夕食に誘ってしまったのか、あとから考えても分からないのだ。ひょっとすると葛西にとっては、ひどい仕打ちだったかもしれないのに。どうして一緒にいたいと思ったのだろう。このまま別れるのがもったいないと思ったのだろう。
仮に今も葛西の想いがあったところで、俺は相変わらず応えられるわけでもないのに。
必然的に飲み屋を選択し、乾杯からまもなく、葛西は酔い始めた。カウンター席だった。
葛西が、以前のように接触を躊躇することはなかった。冗談を言いながら甘えてくる。オーバーなアクションで抱きついてくる。平気なのか。もう、ふっ切れたということなのか。
すぐに顔や耳、目まで赤くなっていた。瞳が潤み始めると、虹彩が店内の明かりを集める。そのさまは綺麗だった。
他愛もない話をした。
聞かれて、齋藤の話もした。見た感じ葛西は平気そうである。だから平気なのだと思い込んでしまった。普段ならもっと慎重だったろうか。酔っていなければ。なにしろ、葛西から話を振ってきたのだし。
「池町さん、俺ね」
葛西が上目遣いに言った。
酒のせいで力が入らない猫背で、多分自然とそうなるのだ。
「ちょっと幸せかも」
「なんで?」
「なんとなく…平和っていうか」
「平和」
「平和な気分。最近ずっと」
ししし、と歯を見せて、彼は肩をすくめて笑った。その笑顔こそが平和の象徴に思われる。
時刻は22時前。明日、俺は休みだが葛西は昼から乗務だ。無理はしない方がいい。
「そろそろ帰ろうか」
「どーこに」
「家だよ」
「池町さんち?」
「来るか?」
いかにも冗談のように頭を乱暴にかき回してやった。葛西はキャッキャッと子どものように笑う。会計を済ませ、二人で肩を組みながら(というか葛西がまともに歩けないので俺が支えてやりながら)鼻歌交じりに、晴天駅を目指した。
夜の六番街が飲み屋の明かりに浮かび上がっていた。整備された用水路の脇に連なる柳が、温かい光を帯びている。
自然に鼻歌は収束した。お互い何も言わず、その沿道をゆっくりと進む。時々酔っ払い達とすれ違いはするものの、穏やかな時間だ。
「……平和って」
突如沈黙を破り、葛西がつぶやく。
「主体性がないと手に入らないんですね」
「…なに、それ。持論?」
「経験からして」
主体性がないと平和は手に入らない?……平和でありたいと願わなければ平和は訪れない?
「俺は今、平和を追っかけてますよ」
葛西が拳をビッと天に突き上げた。平和を。世界平和をね。葛西は言う。
「世界平和っておおげさだな」
「平和って世界平和のことでしょ」
「そうなのか?」
「だって世界って、自分を中心に広がってるものだし」
「……そうか」
「幸せになりたいってそーゆうことじゃないですかあ?」
それはやはり、持論だ。自分が平和であることが自分の世界の平和。で、世界平和。シビアな意見だ。
「そんなことで全世界は平和になるのか?」
「なります。なりますよー」
「どうやって」
「まわりも幸せであることが前提ですもん」
ふいに葛西がぐらりとよろけ、体重がかかる。たいした重みではないが。
「まわりが不幸せだと伝染するでしょ?」
葛西が小首を傾げて言う。そうか意外に、シビアでなく、平和的な持論なんだな。
俺は葛西の頭をなでた。少し驚いたように葛西が見上げてくる。まだその顔は赤く、体温も高い。
「お前は、いいヤツだよ」
「なんすかそれ」
「事実だよ」
髪の毛をかき混ぜて、特に何も考えずに笑いかけた。
すると直後、葛西の目から涙が一粒こぼれた。
「――……」
立ち止まった。葛西は顔を伏せる。
しばらく、沈黙した。
――泣いた。なぜ?今更……
「……葛西?」
声をかけると、葛西は首を振った。
「なんでもないです」
「……」
「なんでも」
そして、自分の足で歩いていこうとして、ふらつく。
慌てて寄り添ったが、葛西はしばらく顔を上げなかった。見ているとたくさんの大粒の涙がぱたぱたと地面に落ちた。あとからあとから。止まらない。
俺は一気に酔いが覚めてしまった。
そうしていいのかどうかはわからなかったが、その状況に耐えられなくなって頭を抱き寄せた。葛西は一瞬硬直してから、すり寄ってきた。
駅に送り届ける頃には、葛西は泣きやんでいた。
改札を抜けて初めて彼は笑顔を見せる。酔ったせいなのか泣いたせいなのか顔は赤いままだった。その瞬間の表情に、悲しそうな趣は微塵も感じられない。
もしかすると今までも、ずっとこうやって我慢してきたのだろうか。
感情を隠すのが得意で。適度な距離を保って。
「……気をつけて帰れよ」
既に踵を返した葛西に声をかけた。
葛西は振り向かず、背中のまま、ひょいと手を上げて見せる。今だって顔を隠している――見えないところでお前は、泣いているのかもしれない。
――俺は今、平和を追っかけてますよ。世界平和をね。
あれは、何を意味していたのだろう。酔っ払いの言うことだ。しかし聞いていて、なにか、ひっかかった。
主体的に平和をつかむ。
だとすると葛西は今、何かに向かっているのだ。積極的に。既に「ちょっと幸せ」でありながら、平和に向かっている。
それはなんなのだろう。
世界平和。
他人とともに幸せであるという世界平和。
自分の平和の一部が、他人の平和でできているという世界平和。
お前は何を、追いかけている?
お前の世界平和の一部は、誰の世界平和なんだ?
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