鬼頭車掌はそうして反省をくり返しながら


2

 ずっと、そうなんじゃないかと疑っている。しかし僕が本人にそれを尋ねることで事がこじれる可能性もあった。
 もしかすると本人は自分の好意に気づいていないかもしれない。それをわざわざ僕が意識に上らせてやる必要はない。
 また、本人は自分の好意を知っていながら無視し続けているだけかもしれない。下手に僕がその話題を出すことで、やっぱり対等に戦いましょうということになったら僕は甚だ困る。万一負けたら、どうするのだ。弱気なわけじゃない。冷静に確率的な話をすると、負ける可能性はゼロとは言えない。

 乗務は八時過ぎに全て終わった。スーツに着替えて更衣室を出る。晴天の改札は出ない。今日、三笠は女友達と飲み会をするらしいのだ。はっきり言って彼女は僕より酒が好きなので、こういうことが月に一度はある。
 僕はそのまま臨海線の快速をつかまえた。車掌は、知らない人だった。
 三笠と会えなくても平気な自分が確かにいる。安心し切っているのだろうか。もともと他人を束縛する性格ではないが、いざというときに自分から追えない性質でもある。それとも、追うべき時は追えるのか。去る者も。でも去る者の去る意志をねじ曲げるような度胸が、僕にはない。
 ほどなく臨海に到着した。まっすぐ南口へ向かう。徒歩五分のところに臨海区の寮があって、目的の人は今そこに入っている。
「あ」
 改札を抜けて道に出て驚いた。葛西さんは、迎えに来ていた。
「ごくろう」
 仰々しく言う彼は私服。顔を見るのは久し振りだ。少し髪が伸びたらしい。前髪の先が眉にかかっている。
「ひさしぶり」
「ほんとだ、なんか、懐かしい」
「雨降らなくて良かったですね」
「うん、それもひさしぶりだな」
 葛西さんが無邪気な顔で笑った。僕は、それを見て安堵している。
 彼が晴天車掌区だった頃は本当にいつも一緒にいた。金魚のフンのようにくっついて回った。彼は彼でフンを大事にするものだから、余計一緒に行動するのが当たり前になっていた。
 そんな人がふと生活から消えて四ヶ月、そしてそれから先も、配属先が少し離れて、同じ建物の住人ではなくなる。
 二人で並んで歩き、駅を離れた。すぐに六番街に突入する。六番街は飲み屋街である。混み具合は平日なのでマシ。
「好きなとこどうぞ」
「うー俺もどこでもいーんだけど」
 揃ってきょろきょろしながら結局南北の通りを抜けてしまった。抜けた先は海岸沿いの住宅街だ。回れ右をして、さっきのちっこい提灯ぶら下がってた居酒屋、と葛西さんが言う。じゃあ、そこにしよう。僕は文句なし。


 耳まで赤いのは同じだ。でも隣にいる人の方が大分浮かれている。そもそも彼は酒に強くない。生中二杯で確実に酔う。
 火照った体を覚ますべく、海沿いの道を並んで歩いた。住宅地なので明かりも少なく、星が隅まで瞬いている。
 やがて防潮堤が途切れると、そこの階段を越えて葛西さんは砂浜に出ようと言った。意味もなく笑っている。つられて僕も、意味もなく笑う。
(あ)
 砂浜に下り立った直後、携帯が振動した。脳裏に浮かんだのは三笠だったが、三笠であるはずがない。携帯を開く。鬼頭だった。
「……社長?」
しゃちょう?」
 晴天の社長って半田さんの親戚だったりします?とのことだ。
 親戚という言葉で片付けるほど遠い関係ではなかった。しかし、人に言うのはどうも憚られる。それに僕の人生にあの人が関わったことは、今までもこれからも多分ほとんどないのだ。
「晴天の社長、じいちゃんなんですけど」
「じーちゃん?」
「僕の」
「お前の?」
 ええっ。酔いが覚めたような顔で葛西さんは驚愕した。そうか、驚くもんなのか。そうか。
 がしっと肩を掴まれる。ぎょっとすると、闇の中でも分かるくらいに彼は大きな目を張り詰めて僕を揺さぶった。
「それってすごくね!?」
「や、でも、ほぼ赤の他人……」
「お前何者!?」
 ゆさゆさがくがく。
 や、やめてやめて。
 あまりに驚き方が激しいので僕が噴き出すと、彼もつられて半笑いになりながら、驚愕の揺さぶりをかけ続けた。そこでまた携帯が震える。揺られながら見ると、意外な人物の名前が目に飛び込んできた。
「松」
「まつ?」
 揺さぶり中断。
 内容は鬼頭と同じだったが、なぜ突然社長の話が出たのかは分かった。ニュースで彼の名前が出たのだそうだ。あの人の姓は半田である。ありがちといえばありがちな気もするが、意外に数は多くない。
「松、元気そう?」
「見た感じは」
 唐突に、がば、と抱きつかれてよろけた。僕だって酔っていないわけじゃない。そのまま砂浜にへたりこむ。彼は徐に携帯を覗き込んできた。闇の中で携帯の画面の光は刺激的だった。
 少し遠くを、電車が走っている。返事を打つ。葛西さんはふと東を見て、あっきれい、と声を上げた。
 つられて顔を上げると、海岸線に都会の光が連なって浮かんでいる。密集している辺りは天つ空だ。それよりもずっと手前には赤い光が点在している。八番街である。
 八番街は貧困街で治安が悪い。旧市街の残骸が今も数多く放置され、実質無法地帯、不良や犯罪者の活動拠点となっている。
 そこまで分かっていても国は手を出さない。出しかねている。
 八番街は意外に広い。晴天区や臨海区以上の範囲が、八番街と呼ばれる地域である。
「不気味だなぁあのへん。探検してみたいぐらい」
「冗談でしょ。やめてくださいよ」
「でも俺、学生時代に一回紛れ込んだんだよね。フィールドワークしようと思って」
「ええっ」
「でも諦めた。入ってすぐに帰ってきた」
 不良の振りはしていたが、心のどこかに恐怖はあった。それが拭い切れなかった。その自信のなさが、八番街の住人には筒抜けらしく、ちょうど出くわした暇そうな不良グループにあわや拘束されかけた。
「……あなたが無事で嬉しいですよ」
「そりゃどうも」
 へらへらと彼は笑う。そうしてまた腕を絡みつけてきた。
「うざい」
「かたいことゆーなよー」
「はーなーせー」
 葛西さんの頭を片手で押し戻しながら、もう片方ではメールを返す。松に返して、鬼頭に返す。それから先に鬼頭の返事が来た。なんか、いかにも構ってほしそうな感じの文面である。
「鬼頭が寂しそう」
「きとう?俺も寂しいよ」
「またそうやって適当なことを」
「適当じゃねーよばーか」
 至近距離で息を吐き出されると、いくら自分も酔っているとはいえ酒臭くてかなわない。比較すれば僕の方が酒には強いのに、飲んだ量は彼の方が多いし。
「ああー半田が鬼頭にとられてしまう」
「何言ってんですか」
「半田が俺から離れてゆく」
「離れてゆかないって」
「はんだー」
「もーうるさい」


 鬼頭は、三笠が好きなんじゃないだろうか。傍から見ていて空気で感じる。三笠と二、三言葉を交わす鬼頭は、心なしか顔つきが明るい。
 僕は三笠を手放したくない。高峰の時は、早くから三笠が高峰高峰と言っていたから自分の気持ちを抑えていた。一度酒に付き合ったとき、高峰のどこがいいわけ、と半ば不機嫌に絡んだことがある。全体的に、と三笠は笑った。なんだそれ。
 拗ねると「なによォ」と三笠に頭をなでられた。些細な幸せだった。悔しいが、幸せで、泣きそうだった。
 顔も好きだし、さっぱりして裏表なくて成績の割に普段の会話はそれほどレベルが高くない、三笠の全体が好きだった。全体的にとはこういうことだったのだ。だとしたら三笠もすごく高峰が好きだったということになるのか。それでも、性格が合わなければ別れるのか。それは非常に怖いことである。
 三笠は元来、誰にでも順応する人間だ。だから鬼頭といても全く違和感なし、居心地悪そうな空気は微塵も見せない。それが僕を不安にさせる。淡く嫉妬することさえある。束縛したくないと言いながら、本当は怖くてたまらないのかもしれない。いやだ、こんな男は。自分で自分が、女々しく思える。


 その頃鬼頭が三笠と出くわしていることを、僕はその時知る由もなかった。その日の昼間に土手で飼い猫ごっこをしたことを僕は一生知らずにいくが、夜、鬼頭が三笠と晩飯を共にしたということは、後日三笠の口から聞くことになるのだった。




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