鬼頭車掌はそうして反省をくり返しながら


3

 平常通りで四人。今回は一人所用のため欠席。当日になって二人が風邪で参って飲み会中止。予想外の出来事だった。
 今更半田に連絡を取るのも憚られた。半田は今夜臨海まで葛西に会いに行くと聞いている。久し振りに会うのだと言って笑った彼の表情に三笠は淡い苛立ちを覚えた。
(優先順位が危うい気がする)
 そこまで、彼女には感じられる。思い過ごしかもしれないが真実かもしれない。例えそれが半田の無意識の範疇の事実であっても。
 仕方ないので部屋に戻り、シャワーを浴びた。空腹感はなかった。妙な時間に間食なんかをするからだ。
(髪を切りたい)
 梅雨のせいもあってか近頃は簡単に気分が鬱屈する。もっと強く生きねばならない。男ができるとどうしても甘えた根性になる自分に嫌気がさす。
 半田の人間ができているからその傾向は尚更だった。高峰はああ見えてそれほどしっかり者ではないので、付き合ったところで三笠のペースが狂うことはなかった。
 半田は、自立している。
 散々自分で自分を女々しいだの無気力人間だの罵っているが、それよりもっと根本的な次元で、彼は自分の足で立っている男である。自分の縄張りを持ち、他人との距離を測りながら自分を規制している人間である。間違っても人に左右されて、損をしたり無闇に傷ついたりすることはない。

 半田と三笠が出会ったのは車掌研修である。授業は男女混合だが圧倒的に男ばかりの教室で、明らかに女だがなんとも凛々しい空気を漂わせていたのが三笠だった。もとより肌は荒れない類の女だったがスッピンで、長い髪を一つに束ねて(結んでいるというよりは束ねている感じであった)、可愛さの欠片もないジーンズとシャツが似合っていた。背は166。彼女より低い男はわんさかいた。
 三笠の落としたシャーペンを拾って渡したのが高峰、その隣にいたのが高峰と仲のいい半田だった。ただそれだけの出会いだった。その日からなにとなくつるむようになり、三人で行動する機会が増えていく。
 刷り込み現象のように高峰が気にかかっていた。
 半田は先に言ったように距離を置く感じの男で、どことなく優等生の匂いが漂っている。その点高峰はとっつきやすい。顔立ちに似合わず成績も中の下、おかげで勉強に付き合ってやって親睦が深まった。
 それだけのことだ。半田ではなく高峰に惹かれた要因はあまりに単純で些細なものだった。
 半田に相談し、彼の協力のもと、告白し、付き合う運びとなり、研修期間を終え、そして三笠は配属が決まった矢先に半田の告白を受ける。
 半田は半田のイメージ通り、淡白に想いを告げてきた。信憑性がないように感じられたほどだ。電話でなければ、彼の表情が窺えたのに。幸せの中心にいたはずだったのが、半田の一言で頭が一気に冷えてしまった。
 冗談でないとしたら、自分のやってきたことでどれだけ半田が傷ついていたかしれない。いくら彼が上手に立ち振る舞ってダメージを受けまいと努力していたにしろ、である。
 しかし、だからと言って高峰が好きなのは変わらないと思っていた。その日から常に頭の隅に半田の存在はあったが、それがさほど重要なことだとは思っていなかった。
 やがて、高峰と別れる。どうも分かり合えない一線が、ここにも存在していた。
 特に大きな原因があったわけではない。会おうと頑張ることに疲れた。疲れるぐらいなら付き合うこともないのだ。そこでやはり彼女は自分の中に男性性を見出してしまう。高峰がいなくても平気である。むしろ彼女の求める安心感や拠り所はどちらかというと彼女自身の中にあり、高峰の中にはない。
 問題ない。自分は一人でやっていける。そして頭の中の半田も、半ば強制的に排除した。
 それからしばらく、付き合う合わないの件に関しては気にも留めず過ごしていた。しかしある時晴天車掌区の人間と合コンの話があると聞いて、久し振りに半田の存在を思い出した。まさか来ていたりはしないだろう。すると意外にも来ていた。半田は以前より少し痩せていた。記憶していたよりも外見のいい人間だった。そこで一気に半田のことばかり考えるようになる。単純な自分が嫌だと思いながらも、不可抗力だった。

(葛西さんに負けてるってことだろうか)
 そんなのは許せない。許せない対象は自分である。だからといって思いつめるわけでもないが、とにかく半田のあの笑顔が受け入れられない。
 付き合っているのに片想いをしている気分だ。
 いまいち半田は能面なので普段から感情を表に出さない。それは女が相手だから気を張っているという可能性もある。いや、多分にそうである。恐らく彼はその葛西さんとやらを相手にするときはもっと表情が砕けるはずだ。ただ、それは仕方のないことだった。先輩と後輩なのだから仕方ない。だがやはり、霧のようにうっすらと、嫉妬心が消えずに居残っている。
 私は束縛するタイプなんだなあ、と呆然と感心し、全裸のまま姿見の前に立った。悪くない、と思った。悪くないってなんだ、とも思った。
 とりあえず、髪を、切ろう。


 腹が減り始めたのは九時過ぎだった。今更冷蔵庫を見てろくな野菜がないことに気づき、24時間営業のスーパーにでも行くことにした。行っても閃かなければ、もう弁当でいい。とりあえず腹を満たせられれば。
 エレベータがなかなか来ないので、階段を下りていく。何も考えていなかった。ぼうっとしていた。腹が減ったくらいの思念しかなかった。それなので二階に下りたところで背後から声をかけられて、危うく段を踏み外しそうになった。
「あ、三笠さん」
 振り返ると、昼間会ったばかりの鬼頭だった。土手でしばらく昼寝した彼は、部屋に戻ってからも寝ていたのだろうか。側頭部に寝癖がぴょんと跳ねていた。
「どこ行くんですか」
「スーパーか弁当屋」
「……どっち?」
 猫のような目で鬼頭は笑う。愛くるしい。だが所詮猫。人だと思っていない辺り、どうなのか。
 駆けてきた彼が隣に来るのを待って、並んで下りた。鬼頭は背が低かった。もしかすると同じくらいだろうか。半田が170で視線はあまり変わらない、すると鬼頭は170ない可能性がある。
「どこ行くの」
「とりあえず何か食いモン買いに」
「これから晩御飯?」
「はい」
 一階に到着。自動ドアに映り込んだ鬼頭の脚が異常に細く見える。腰で穿いているジーンズが今にもずり落ちそうに見えた。
「……どっか食べに行く?」
「え?」
 予想外だといった風に鬼頭は目を真ん丸に見開いた。あどけない。無意識なのだろうが唇の先が少し尖っていた。幼稚な顔だ。
「行こう」
 三笠は強引に押し通した。今だけこの男を独占しようと思った。猫を見ているような気持ちだがそれは無視して、好きな人間に会っている半田に精神的なレベルで追いつけるような、そんな気がにわかにする。

 行ったのは創作料理店で、前に半田に連れて行かれて気に入った所だった。その夜、頼んだことのない料理を注文したがこれがまた美味で、半田にも教えてやろうと彼女は機嫌よく思った。
 後ろめたさがなかったわけではない。こういうのを半田は嫌がるかもしれない。いくら互いの友人だとしても二人きりで食事に出かけるとなると、これはもう完全に半田の許容範囲に委ねられる。
 妬かれるのも悪くない、と思った自分は意地悪だ。自分が葛西に妬くように半田も鬼頭に妬けばいいなどと。幼稚な発想だ。
 だが男女の付き合いなど極めて原始的、小難しいことなど厳密には有りはしない。


 雨が降っていた。昼でも薄暗く、踏み荒らされた駅のタイルが大勢の靴跡で汚れている。しかしダイヤに乱れはなく、目立ったトラブルもない。少し冷える以外は穏やかな平日である。
「……ふうん」
 一言、半田はつぶやいた。列車が走り抜ける音にかき消されそうな音量だった。
 臨海駅、詰所脇、休憩時間中。
 制帽を脱いだ半田は髪先や制服から水滴を落としていた。視線は相変わらず静かで、いかにも興味のなさそうな口調である。怒って、いるのか?
「私が無理矢理誘ったから、あの子は悪くないよ」
「無理矢理」
 半田はポカンとした様子で繰り返した。制帽をぐっと被り、ツバが目元に影を落とす。
「深い意味は、ない……」
「あったら困る」
 くすくすと彼は笑った。すっきりとした横顔の鼻筋が美しかった。
 それを見ていると漠然とした不安がわだかまった。心理的距離を感じる。単なる思い込みだろうか。
「……なに?」
 知らぬうちに凝視していると、微笑まれた。優しい顔つきだった。
「――やっぱり」
「ん?」
「すきだ」
「……え」
「すきだーもう…」
 独り言のように彼女は顔を覆う。そうして指の間から視線を泳がせ、照れ隠しで思わず軽く咳を二度ほどすると、ふいに背中をなでられた。温かい。
 体が冷える。二人になりたい。一瞬で構わないので抱擁をしたい。できれば軽く、口づけも。
「あんまり面白くない」
と、半田は唐突に言った。
 え、なに、と彼の顔を見ると、普段は澄んで見えるその瞳がどこか少し曇っているように映った。
「鬼頭と二人きりになるのは、やめて」
「……」
 今度は三笠がポカンとした。こうも明確に半田が束縛要素を口にするのは初めてだった。
 背中から白手袋がすっと肩に移り、指先で頬に触れる。口づけられるのではと急激に緊張した。しかしその期待も空しく、白い手はその後するりと引き下がっていく。そうだこんな場所で、半田がそんな危険なことをするわけがない。
 また列車が駆け抜けていった。彼はその音に触発されたように腕時計を見て、そろそろ、と言った。


 その対岸ホームの更に対岸に、鬼頭がいた。乗務待機で、所定の位置について手袋をいじっている。見ないようにしようと思えば思うほど二人の様子を垣間見てしまっている。そうやってチラチラと気にしていると、ふと、半田の手が三笠の頬をなでたように見えた。三笠の耳は、ほんのりと染まっている。
 ああ…と彼は思った。目の前が暗転したような気分だった。
 倦怠感のようなけだるい嫉妬が背筋を這って、それはやがて入線した列車に乗務してからも、しばらく執拗に体にまとわりついていた。




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