鬼頭車掌はそうして反省をくり返しながら


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 六月。
 目覚まし代わりに勝手に背もたれ部分が起き上がるベッドからその朝、ずり落ちた。寝相が悪いからいつも端に寄った状態で起床するのだが、ベッドから落ちたのは初めてだった。
 雨かな、と唐突に思う。寝ぼけた頭で耳をすますと、壁の向こうはやはりしとしとと穏やかな雨天である。
 とりあえず顔を洗って小便をして、膝に青アザを見つけてぎょっとした。さっきので内出血したというのか。おれは一人で何をやってんだ。

 今夜も泊まりなんて気が萎える。萎えすぎて昨夜はオナニーする気も起きなかった。これで三連勤だ。なぜかこの時期に喉が痛いという謎の事態でもある。嫌がらせとしか思えない。
「散髪したから夏風邪でも引いたんじゃないの」
 詰所で遭遇した鮫島さんにそう言われた。確かに頭皮が透けるほど思い切って切ったのはやりすぎだった。前までが鬱陶しい髪型だったからヤケになってしまったのだ。鏡の前に立つと、似合わなくもないが似合っているかも微妙。この冒険は失敗だった。
 点呼の際、同年代はいなかった。久し振りに同年代に会いたい。たとえば半田さんなどに会いたい。あの人といると、心が癒される。おれは恐らく今あの人が一番好きだ。いや、別に、変な意味じゃない。
 見習いの時期に一緒に乗った先輩の中で、最も仲良くしてもらっている。
 こんなにべったりしていいのかというくらい、暇なときは彼の部屋に入り浸った。そしてだらだらして、帰る。彼がおれの部屋に来ることは少ないが、それでも気にしない。おれが行くからそれでいい。行って、半田さんの癒しの雰囲気に染まって、帰宅して安眠。問題ない。
 それにあの人の部屋に行くと、三度に一度は彼女を拝める。この前おそるおそる聞いたら、彼は指を口の前に立てて、小声で教えてくれた。彼女、Eである。
 そんな個人情報を教えてくれるぐらいだから、おれはそれなりに半田さんに好かれているのだと思っている。思い過ごしじゃないといい。そしてずっと好かれていたい。
 半田さんの先輩で仲がいいという葛西さんをホモ呼ばわりした際はどうなるかと思った。あわや絶交、かと思った。しばらく部屋に塞ぎ込んだ。
 確かに言った直後、感じたものはあった。小ばかにしたような言い方をしたと自分でも気づいた。
 きもちわるいと言ったことも、ホモなんですかと言ったことも(この辺りでそういえば半田さんは微妙な表情をしていた気がする)、こういう写真で抜くのかと言ったことも全て、だめ。ホモというのさえ、差別的だ。ゲイと言ったほうが多分にいい。
 思い起こしていくと、おれはとことん、だめである。
 とにかくもう最初から最後まで軽薄でだめだ。終わるのか、と思った。せっかく仲良くなった人を、こんなにあっさり失うのか、と項垂れた。そして実は少し泣いた。
 謝ったのは一週間後。
 しかし、先に謝ったのは向こうだ。
 とことんだめ。おれって何。くだらなすぎて笑えるが笑えない。ばか?ばかなのかおれは?誰かいっそ罵ってくれたらこの軽薄さも収まるのだろうか。昔からすぐに口が滑って陰口を言ってしまう体質だった。もう社会人なのにこの体たらく。笑えない。いっそ生まれ変わりたい。そうだたとえば、半田さんみたいな好青年に。


 連勤アケ、半田さんにメールをする。昼間だ。メールは、一時過ぎに返ってきた。休憩時間だそうだ。
(まだ乗務か)
 更衣室のロッカー前でぼんやりした。帰って寝てもいい。明日も休みだし、今日は何もしなくてもいい。
 しかし珍しく外は晴れ渡っていた。雨ばかり降るせいか空気も澄んでいて、小窓から覗く空はやけに高く見えた。
(散歩……)
 にでも行くか。
 いよいよ眠くなったら帰ればいい。よし、散歩、行こう。
「あ、鬼頭おつかれ」
 更衣室に佐藤さんが入ってくる。あまり絡むことはないが、この人もなかなかに穏やかな人だ。半田さんと似通ったところがある。でもなんだか、顔が、女っぽい。二重だし顔も小さい。
「おつかれさまです」
「元気か」
「あんまり」
「ちゃんと抜いてるか」
「昨日抜き忘れました」
 そう、この人、可憐な顔してさらりと下ネタを言う。そこが決定的に半田さんと違う。半田さんっていうのは原則として、下ネタを、言ってくれない。おれから振るのが常である。
「佐藤さんは、元気そう」
「ちゃんと抜いてるからね」
 あはは、と彼は爽やかに笑った。ああ……これはこの人の才能だ。むしろカッコイイ。日々ちゃんと抜いてる爽やかな美青年。オエー。
 でもそういうところが佐藤さんらしくていい、と眠い頭で思った。
 ほどなく彼はスーツを着て帰っていく。最後の笑顔も爽やかだ。おれはというとシャツのボタンを二つも掛け間違えていて、二つもずらすなんてかえって難しいだろと自分にツッコミを入れながら、丁寧に掛け直した。ネクタイは窮屈に感じて、一度締めてから解いた。ロッカー内側の鏡の中、元気のない自分と目を合わせる。隈がうっすらできていた。ああでも、晴れだ。少しぐらい散歩しよう。差し当たり、土手などを。


 土手の斜面は青々と茂っていた。足元の土も乾いているし、芝の上で昼寝したい、と少し思った。しかし今寝たら多分数時間は昏々と眠る。屋外でそんなに寝たりしたら風邪は悪化する。
(……可愛い女の子が一緒にいたら)
 いいんだろうなあ。たぶん。なんだかなあ。
 別に彼女がいなくても生きていけるが、いたらそりゃあ、楽しい。でも第一の問題として好きな女がいない。女は好きだが、好きな女はいない。
 ふいに三笠車掌が思い出された。半田さんが羨ましかった。三笠さんが半田さんの部屋に来て、入れ替わりにおれは退散して、その後二人は。その後二人は……
 おれは誰に妬いているのだろう。
 自分がヒトリモノなのが気に食わないのか、恋人たちが自分を差し置いて幸せそうなのが気に食わないのか、半田さんが横取りされた気分で苛立つのか、三笠さんが人の彼女であることが面白くないのか。
 や、最後のは少しおかしいな。おれは別にあの人が好きなわけじゃない。
 でも、E。
(……)
 ああせっかく健全に散歩しているのにおれは、Eカップにとらわれている。Eの胸を想像し、想像しちゃ悪いだろと頭の中をAVの映像にすり替えて、連勤に入る前に観たDVDの釣り目の女優が胸を水着からぽろんとはみ出させるのを想像した。ああ外にいる意味がない。疲れているはずなのにちょっと、元気の兆し。ばか……だな。完全に……
 もう帰って、元気になるべく、佐藤さんを見習ってコトを成そうかと思った。久々の晴れが台無しだ。くるりと踵を返し、道を戻ろうとした。すると正面から、見覚えのある人が歩いてきていた。
(ゲッ)
 三笠車掌。スーツ。化粧。多分、アケだ。
 もう一度方向転換して逃げようとした瞬間、彼女に、見つかった。(一本道で見通しがいいから当たり前だ)
「あれっ鬼頭くん」
 呼ぶな!おれの名を呼ぶな!このまま帰らせてくれ。このまま帰って抜かせてくれ。さっきおれは妄想の中であなたの胸の持ち主をAV女優にすり替えたばかり。
「……三笠さん」
「あ、名前覚えてくれてた」
「そりゃまあ……」
 化粧をした彼女は、やたら美人に見えた。釣り目もきれい、睫毛がくるんと上がっているのもかわいい。長い髪の先が肩の上で踊っているのを見てもドキドキする。
「アケ?」
「アケです」
「眠そう」
「眠いです」
 くす、と彼女は小さく笑った。かわいい。
「私も眠い」
「一緒に寝ましょーか」
「なんだ、それ」
 けらけら。かわいい。ああせめてドキッとぐらいしてくれよ。……仕方ないか。
「なんだそれ、はないでしょ」
「だって、なんだ、それ、じゃん」
「傷ついた」
「あら、ごめんごめん」
 にゅっと彼女の手が伸びてきて、頭をなでてきた。
 あんたがおれをドキッとさせるのか!
「あなたね、油断してるでしょ」
「油断?」
「あんまりベタベタしてたら持って帰りますからね」
「あら、こわい」
 けらけら。この人はいつもこうだ。前も、襟足が真ん中でわかれているとか言って首筋を触ってきた。なんだこの女はと思った。しかしどうやら彼女は、人に触るくせがあるのだ。仲がよければ頭もなでるし、惜しみなく満面の笑みを見せる。おれは彼女のそういうところにむしろ感動するようになった。
 持って帰る、などと口にして、自分で照れる。
 恥ずかしくなって土手の斜面に下りていき、腰を下ろした。幸い、土は乾いている。寝転がると、青空。
「寝ちゃうよ、鬼頭くん。風邪ひくよ」
「もう風邪ひいてます」
「だったらなおさら」
「でも、暖かいし……」
 ああ、頭がぼんやりしてきた。横たわると疲労がずしりとくる。やがて視界の外で草を踏む音がした。彼女も、下りてきたのだ。そしてやはり気安く、隣に腰を下ろす。からかってるんじゃないよな、まさか。それともおれをそれなりに気に入っている。いや、そういうことは、考えたくない。ああ、眠い。死にそうなほど。
「ねむ……」
 目を閉じ、あくびをかみ殺す。傍に人がいる。しかも女の子。問題はそれが好きな先輩の彼女であるということだけ……
 草の匂いがする。全身が感じる空間が、広い。部屋特有の鬱屈した感じがなくて心地いい。
「鬼頭くんって、猫に似てる」
 ふと、頭上で声がした。重い瞼を持ち上げると、三笠車掌が俺を見下ろして微笑していた。
「……どのへんが」
「顔が」
「……褒め言葉?」
「もちろん」
 猫みたいな顔ってなんだろう、と鈍い頭を巡らせようとする。しかし、何も考えられない。
 ふいに髪に温かいものが触れた。なでられたのだ。
「持って……帰るぞ……」
「――今の状況だとむしろ逆の危険性が……」
 くくく。喉がひくついて、笑う。眠くてもう声が出ない。
「猫、好きですか……」
「好きだよ。犬も好きだけど」
「じゃあ飼って……」
「すごいこと言ってますよ、おにいさん」
「やー…だって…猫だから……」
 どさくさに紛れて、手を伸ばした。眠いし、正気で物事が判断できなかった。と、思う。そうでなければいくら構われたからって、人の彼女にベタベタなんかしない。この人がベタベタする性質なのは既に知っているわけだし。
 頭をなでている手を取った。温かく、柔らかだった。気持ちいいな、と思ってそれに頬をすり寄せるといよいよ心地よく、そこでついにおれは意識を手放した。




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