松駅員が記事になることはない


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 九月下旬、松は晴天鉄道を退社した。それを本人の口から聞いたのは、助役に挨拶に来ていたところに出くわした藤森清掃員だ。松があまり駅構内に踏み入れられない事情を知っていた助役は、わざわざ制服を脱いでスーツ姿で駅出口まで出向いていた。松は頭頂部が地面に付くかというほど深く腰を折り曲げて頭を下げていた。

 松の退社からもう数ヶ月になるという日に初めてそれを聞いた俺は驚愕した。聞いてみて正解だった。まさか藤森から情報を得るとは誰も予測しえない。
 藤森とは、体調不良で嘔吐したのがきっかけで言葉を交わすようになった。歳は二つ下だがいやに考え方が老けており、会話しているとどちらが年上なのか怪しく感じるほどだった。
 歳が上か下かを当てるのは昔、得意だった。しかし歳を経れば経るほど、上だと思っても下だったというようなことが往々にある。そうだそればかりが多い。つまりは俺がある時期から成長していないということだ。つい最近意味もなく自分の勘について考えて、このように思い至り、やるせない気持ちになった。体さえ若ければいいのだ。中身は歳相応に老けていくべきだ。
 いやそれで、松の話だが。
 松が晴天行きに客として乗ったあの夜のことしか俺は知らない。嘔吐して震え、涙を流しながらある男の名前を叫んでいた。二箇所人身の天つ空で、客を助けようとして亡くなった車掌の名前だ。
 その日の記事を合計三紙から取っている。A社には本名でなく「車掌」とだけ書かれていた。C社は近年、鉄道ネタを取り上げる傾向が強いためか、比較的広くスペースを取っている。B社はそれらの中庸をとる分量である。
 C社には、かつて俺を取り上げた室井という記者がいる。あれは、「中学生にマナーを教える車掌」だったか。現実は良くも悪くもとれる叱咤だ。社員としては危険だし、近所のおじさんとしては合格といったところか。いずれにしても頑固だということには変わりない。
 二箇所人身を取り上げた記者は別の人間だ。そして重点は、天つ空にあった。
 もちろん天つ空でも駅員は線路に下りているだろう。転落客は全身打撲でまもなく死亡とあるが、車掌についての死因の記述は三紙とも省いている。松も、一紙くらいは読んでいるはずだ。読んで何かを思ったか。思わなかったにしても、彼の受けたショックは察するに余りある。
 病院に搬送された松のもとへ、乗務を終えてから向かった。駅員暦がやたらに長い一つ下の金谷と、錯乱一歩手前で自分を引っかきそうになる松をずっと抱きしめて抑えていた女性客が、病室前に佇んでいた。
 その女性客は当初からすると次年度の新入社員、花島智里だった。この時は誰もそのことを知らない。ただ乗り合わせただけの乗客にしては不思議なほど親切な女性だとひそかに思っていた。
 その晩、松は入院、彼女は友人と思しき女性の車の迎えによって帰り(この友人と思しき人が実は野村遥だったのだが)、金谷は制服のままだったので一度駅へ、俺はそのまま寮へ。
 翌日は一人で見舞いに行った。松はあまり健康そうではなかったが、話しかけるとちゃんと笑えるし会話もできるし、本人の言うようにすぐに退院できるものだと思っていた。それ以降、俺はその病院へは行っていない。松は、いずれ復帰するものだと信じ込んでいた。
 金谷から、松が晴天の遺体処理後に激しいショック症状にみまわれていたことを聞いたのは、藤森からの情報を得た後のことだった。

「アドレスは……持ってます」
 半田が携帯を開きながら、ぽつりと言った。松の入社後まもなく、挨拶をする機会があって、その時に交換したのだ。俺も同じだった。しかし、半田と同じくメールを交わしたことはない。
「寂しいですね」
「ん……」
「放送上手かったし」
 臨海行き快速八両編成の七両目、見遣ったところ車掌は知らない人。休日の午後三時、車内は空いていた。深いグリーンのクロスシートに並んで座り、俺が今日も窓際である。乗務員のくせに、寝不足の日は簡単に酔うのだ。もっとも、乗務中に乗り物酔いをしたことはまだない。気持ちの問題に違いあるまい。
 窓を流れていく海は、かつて太平洋と呼ばれていたものの一部だ。水平線が細やかに日光を反射してきらめいている。青空の低いところを、真っ白なカモメが群れをなして飛んでいく。
「今頃どこで何をしてんだか」
「……ね」
 ねっ。
 俺は意識せず半田の相槌を繰り返す。するとふいに半田のチョップを脇腹に食らった。痛くはなかった、くすぐったかった。
「時々そーやって声真似して」
「え、わり、完全に無意識だ」
 反省の色もなく告げると、半田の両手がにゅっと伸びてきて今度は脇をくすぐった。咄嗟に逃れようとすると頭を窓にぶつけ、ごんと鈍い音がした。
 あ、と半田がびっくりする。
 その一瞬の隙に脇へ手を差し入れ、仕返しをした。ひひひと軽い笑い声を立てて半田は無駄な抵抗をする。
 まもなく白貝(しろがい)、白貝です――
 温度の低い年配車掌の車内アナウンスが流れると、半田が急に声を上げた。窓を見て、大きな目を張り詰めている。
「葛西さん、あれ」
「そんなフェイントは甘い」
「違います、カモメが」
「……カモメ?」
 振り返ると、すぐそこをカモメが群れて飛んでいた。電車を追いかけているように見えた。まるで、船に呼応して隣を泳ぐイルカのように、ぴったりと傍に張りついている。
 憧里(どうり)−白貝間は線路が最も海に近づく。今年はカモメも異常発生でどこにでもいて、都会のカラスと同じく自然界を越えたものにまで執着するようになっている。
「危ない」
 半田が口の中で言った。口調はかすかな不安を含んでいる。俺はその声を聞いただけで、胸に静電気のようなものが走るのを感じた。
 水平線の方を飛んでいた集団とは違う。しかし、同じ種類なのか、翼の先から尾っぽの先まで純白で、海や空の青によく映えた。眩しい。
「……」
 結局、電車に翼を当てるカモメはいなかった。白貝に停車すると、集団は一度四方八方に散ってから海を目指し、沖合いでまた一つになる。
 開いたドアから潮風が入った。そして規定の二十秒をあっさり過ごし、すぐさま閉まり、出発した。
「……半田が危ないって言うと、ほんとに危ない気がする」
「なにそれ」
「なにってそのまんま」
「説得力が、あると」
「そうだよ」
「僕は本当に危ないときしか危ないって言わないですから」
 至極当たり前のことだが、言われて、ははぁ、とうなってしまった。半田というのはどうも、的確だ。的確な人間だ。それゆえ怖い。的確だと信じているから簡単に恐怖や不安が伝染する。
 そうやって素直に感心しているのが気にかかったのか、半田は気まずそうに顔をそらした。
「え、なに」
「……自分で説得力があるとか言って」
 ちらついた目が僅かに拗ねている。俺はなんだかそれが面白かった。思わずくくくと笑う。
「平和だな」
「……平和」
 些細で確かな平和。
 お前に少しでもいいから分けてやりたい、松。
「俺、ここ運転すんのかなぁ」
「え?」
「どうせ配属、臨海だから」
 研修終了まであと一ヶ月だ。出所したらもう初夏である。季節が流れるのは早い。歳をとるのも早い。もう、二十八だ。
 松は今年度二十一、半田は二十四か。
 本来なら俺の事態は深刻だが、もう正直なところどうでもよくなってきている。何しろ今関わっている女といえば野村遥か母くらいしかいない。野村は、大手A社に入社して以降多忙でメールのやり取りもできない。しかも彼女は二十三だ。若すぎて、束縛しようものなら俺は良心の呵責に苛まれて身動きができなくなる。もっとも、それ以前に男として見られているのか微妙な線だが。
「僕は多分晴天ですね」
「……沼町、廃線になるかなぁ」
「なるんじゃないですか」
「けっこう、あっさり言うね」
 生まれ育った土地だろう。両親家族いるだろう。
「本当のことですから」
 半田の横顔は地味だった。淡白だった。
 単に感情がそれほど意見に立ち入らない性分なのかもしれないが、それは少し寂しい話だ。
「寂しい」
「誰が」
「俺」
「僕も」
「三笠ちゃんいるじゃん」
「いるけど寂しい時もある」
 それも本当のことですから、か?
 時々訪れる平和、合間を埋める寂しさ、やるせなさの海の向こうを知ることはきっとない。そこでもどうせ同じ空が広がっている。そして恐らく似たように真っ白な光の粒みたいなカモメが、無邪気に人を追ったりしながら、平和に、飛び遊んでいるに違いない。




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