松駅員が記事になることはない


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 春の終わり、日差しや草花から初夏を感じられるようになってきた頃の話だ。晴天駅三番線で、二十代後半の無職の男が回送列車にはねられて死亡した。通過時の速度は四十キロ強、自殺の意志による飛び込みだったせいもあり、遺体は無残にも轢き裂かれて粉砕した。
 半田はちょうどその時刻に、葛西と二人で対岸の四番ホームを歩いていた。男が列車と接触した位置に最も近かったのは彼らだ。春風は心地よい暖かさで、青空からは昼になってほとんどの雲が引き下がっていた。
 日差しの中に突如男が踏み出した。浅くうなだれて、視線は数歩先にあるべき地面を見ている。しかし実際にはその先に足場はない。それでも男の歩調は緩まなかった。
 ふいに耳をつんざくような警笛がホームに響き渡った。注意を引かれて顔を上げると、男の体が線路に前傾して落ちていくのが見えた。
 瞬間強く体を後ろに引き戻され、視界が何かに遮られる。列車と人との接触時特有の鈍い音が弾けたのはその直後だった。
 穏やかな気候の昼下がりが一転した。急激に心臓が早鳴りはじめ、人々の尋常でない様子の悲鳴がまだらに上がって全身が粟立つ。驚愕で瞬きもできず、足も動かなかった。やがて静かに視界が晴れる。目隠しをしていたのは葛西だった。
 やけに近くに葛西の呼吸が感じられた。肩先に彼の心臓があって、強い鼓動が布越しにかすかに伝わってくる。
(かばわれた)
 半田は唐突に理解した。悲惨な事故現場の前に立ちながら、葛西のおかげでその瞬間の目撃を免れたのだ。駅員時代は運良く立ち会わずに済んだ人身事故から、今度は他人の手によって守られたのである。
「……かさいさん」
 まもなく彼に引きずられるようにその場を去りながら、半田は口ずさんだ。自分でもはっとするほどに呼吸が荒くなっていた。
 葛西の横顔は蒼白で、人形のように生気を失っている。この時彼は人間が車輪に巻き込まれるのを初めて目の当たりにしたのだった。向かい側の線路でなければホームが邪魔して見えなかったものを、つくづく運が悪い、と葛西は頭の隅で繰り返す。冷静であるふりをしなければ気を失いそうだった。
 二人は心持ち早足で詰所に引き上げた。ドアを開けるなり葛西は、三番で人身、バラバラだ、と待機中の乗務員に手短に告げた。バラバラという単語に、半田は身震いする。
 やっぱりそうかという色が同僚たちの顔に浮かんだ。あの警笛の鳴らし方は間違いなく人身のそれだった。ホームから一呼吸遅れて詰所も僅かにざわめき始める。
「葛西さん」
 再び、半田は呼んだ。さきほどより声は落ち着いている。葛西が青白い顔で振り返った。半田はその様子に言いようのない不安を覚えた。
「ありがとう……ございました」
「いいよ、咄嗟だったしお礼言われることでも」
「大丈夫ですか」
「平気」
 全く平気ではない顔で葛西はつぶやき、トイレ、と口の中で言って素早く詰所を出て行った。半田は追おうとしてふと、六番ホームからの乗務が迫っていることを思い出す。もともと用を足すために外に出ていたのに今や尿意まで失せていた。仕方ないので踵を返して鞄を取り、得体の知れない焦燥に指先の震えを感じながら、制帽を無意識にぐいと深く被って詰所を後にした。

 三番線を抜けたところに回送列車が急停車している。その後ろで線路に下りて、若い駅員が透明のビニール手袋をはめた手で、散らばった肉片をゴミ袋に拾い集めていた。
 派手なもので四番の線路にも血が飛散している。せめてゴーグルでもできれば赤色を見ないで済むのに、と彼は思った。
 前方の車両から声がかかる。年配の先輩駅員と手分けして礫死体を拾っているのであるが、できれば呼ばれたくなかった。しかし逃げるわけにも行かない。
 はい、と青年の駅員は声を発した。我ながら気味が悪いほど歯切れのいい返事だ。いわゆる躁状態のような興奮が全身を支配している。呼吸が速い。
「脚はもう拾ったんだけど、上半身が入らない」
 極めて事務的に、年配の駅員は告げた。彼のゴミ袋は既にきつく口を結ばれ、これ以上は受けつけないと言わんばかりにしっかりと閉じられている。残りをこちらに入れろと言うのだ。
 なにとなく見下ろして一瞬、脳が揺れた。遺体の顔は真っ赤だった。上と下とで死んだ男は分解してしまっている。露出している内臓はまだ鮮やかな色で、生気を宿しているように見えた。
(これは模型だ)
 青年は奥歯を噛み締めて素早く屈み込む。深く考えないうちに拾うのだ。人間だと思ってはいけない。これはきっと何かの悪い冗談だ。
(人体模型)
 理科準備室に立ち尽くす人形。あれも内部は鮮やかに彩られている。目の前のものもそれと同じだ。大丈夫、これは人間じゃない。
 てきぱきと詰め込んで、意地のようにゴミ袋の口を何重にも固く結んだ。年配に促されてそれぞれ袋を抱きかかえて運ぶ。ずしりと重い。固いようでやや柔らかい体の感触。ふいに見遣った袋の隅が、水を溜め込んだように張っていた。見えぬ血溜めを想像し、脇の下にどっと汗が滲むのを青年は感じた。

 制服は紺よりも更に渋い、非常に暗い色である。しかし黒ではない。
 直視しないように顔を背けながら、青年は真っ赤な手袋を外して捨てた。自分の腹や膝は血で黒ずんで固まっている。まるで人を殺した直後のようで、全身の血が冷えていくように緊張した。
 青年は顔を上げて鏡の中の自分を見る。死人のような顔をしていた。恐ろしいことに自分と目が合った瞬間、今まで押さえ込んできた恐怖が突如胸に上り詰め、彼は勢い良く嘔吐した。
 奇怪な獣のような呻きが上がった。自分の声とは思えなかった。
 そのまま無心に吐きつくし、意識が戻った頃には先輩の駅員が駆けつけていた。この人は若いが、青年より何年か駅務は長い。事故当初は別のホームで車椅子の乗客の乗降を手伝っていた。
(この人も拾ったことがあるんだろうか……)
 朦朧とした思考の中で青年は思った。自分が吐いた物の臭いが鼻腔に留まっている。まだほのかに胸やけがする。今死ねたらどんなに楽だろうと暗い思考がよぎったにもかかわらず、それを否定する気にもなれなかった。

 青年は名前を松隆也と言い、活舌の良さや柔らかな声音を買われて、昨年の秋頃から晴天駅の案内放送のほとんどを引き受けていた弱冠十九の若者だった。問題の年の夏ようやく、ハタチを迎える。
 この春の人身事故は数日後には二箇所人身と名づけられ、彼が九月には晴天鉄道から姿を消すことになる原因となった。
 一箇所は先に記した晴天駅の事故、もう一箇所は天つ空駅の事故である。こちらも人身事故だった。
 小一時間ほどして分かったことはどちらもほぼ同時刻に発生していたということ、天つ空駅で轢かれたのは自殺者ではなく、転落客とそれを助けに飛び込んだ車掌の二人であったということだ。
 車掌の名前が松の耳に入ったのは翌日だった。メールの返事が返ってこないのは多忙のためだと思っていた。僅かな希望を裏切る情報に、体内で何かが派手に弾けた。にわかには信じられない事態だったが、まともに声も出なくなり、その日はあえなく早退した。
 次の日から、出勤できなくなった。
 寝ても覚めても頭は混乱から抜け出せない。何が起こっているのだろうと松は呆然と思った。ふいに焦りが生じて無闇に周囲の家具やら何やらを片っ端から殴り飛ばしていった。数分すると正気が戻り、強盗に荒らされたような部屋が眼前に広がっている。怖い、と唐突に思った。思うと同時に違和感が胸をせり上がり、慌てて便所に向かったが間に合わず廊下で吐いてしまった。
(死ぬ)
 松は直感した。
(このままじゃ死ぬ)
 誰の力によって、どのように死ぬのかは分からなかったが、このままでは確実に発狂して命を失うと予感した。なぜ、こうなっているのだ。なぜ自分の部屋にいて生命の危機を感じているのだろう。
「た」
 独りでに口が動いた。どういうわけか喉は枯れていた。
「種村」
 無意識だった。その名前が自分の口から出て、種村?と思い返す。
 そうだ種村。種村だ――

 それまでに感じたことのない不安を覚えた。
 突如として涙が堰を切って溢れ出し、次から次へと吐き散らかした汚い床へ降っていく。赤子のように声を上げて泣き喚いた。壁を殴りつけても痛覚は麻痺している。体よりもずっと奥の方が痛い。内臓よりも更に奥が痛い。取り返しがつかない。
 忽然と脳裏を赤い顔がよぎった。先日自分の拾った人だ。力なく目を閉じていた。安らかだった。とても安らかな顔で死んでいた。
 尋常でないほどの苛立ちが湧き起こる。なぜ死んだのだ。なぜ落ちた。なぜ死体になったんだ!
 力の限り吠えた。それでいて心の中はひどく冷たく凍りついている。喉が渇く。頭が痛い。気持ちわるい。これは何の冗談なんだ。
 真っ赤な顔で安らかに死んだお前。
 お前は――

 種村だったのか?




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