松駅員が記事になることはない


 3

 間違えて買われましたか、切符。と、駅員の方から声をかけてきた。

 女性駅員が食い入るように俺を見ていた。凝視されるほど不審な動きはしていないつもりだったが、冷や汗をかいている。改札の手前で足がすくみ、駅員のたたずまいに自分の駅員時代を思い起こす。
 制服が怖い。あれを着ているときに地獄の底に突き落とされた。再起不能なほどの衝撃を食らい、退社に追い込まれた。
 そうやってぼけっと突っ立っていたからなのか。やがて女性駅員はまっすぐに歩み寄ってきた。白い名札に「花島」とあった。きれいな苗字だ。
「間違えて買われましたか、切符」
 人当たりのよさそうな声で彼女は言った。大きな目をしていたが、薄化粧なのか全体的に地味な顔立ちだった。口紅は桜色だ。
 黙って一回頷くと、彼女が掌を出す。柔らかそうな白い手の上にシワが寄った切符を載せた。急に、無性に恥ずかしくなった。
「ちょっとお待ちくださいね」
 嫌そうな気配ひとつ見せず、彼女はくるりと踵を返して戻っていった。
 次の瞬間、小さな閃きのようなものが脳裏に瞬いた。
(どこかで会った気がする)
 駅員室は見ないようにして、出口から駅前の横断歩道を眺めながら考えた。あの顔には確かに見覚えがある。恐らくどこかで会った。何か関わりを持ったか、通りすがりで偶然顔を覚えていたか、微妙な線だ。
 信号が青に変わって群集が動き始め、横断歩道の中心で混ざり合う。その頃ちょうど花島という駅員が戻ってきた。160円と、メモのようなものが手渡される。予想外の紙切れに思考回路が鈍った。開くとアドレスが書かれていた。
「……無理しないでくださいね。松さん」
 ふと、慮るように駅員が囁いた。
 え、と顔を上げると、彼女は微笑してから、急に恥ずかしそうにうつむいて駅員室に帰っていった。名前を知られている。なぜだろう。しばらく駅員をしていたから、その時に関わった人なのだろうか?
(花島)
 …思い出せない。そんな名前だったら覚えているはずなのに。
 もしかすると名前はもともと知らなかったのか。あの目と口元の感じだけ覚えている。白い肌に、栗色の髪の毛がよく似合って――栗色?
 駅員の花島は黒髪だ。
(――あの時だ)
 唐突に、思い出した。
 本気で退社を考えながらも決心がつかなかったあの夜、数ヶ月ぶりに客として乗った臨海線、救急車で病院に運び込まれた錯乱の日。あの時の正確な記憶はまるでないが、後日見舞いに来てくれた葛西さんが、同じ車両に乗っていた女性客が病院までついてきてくれたということを話していた。
 俺はその人に車内でずっと抱きしめられていたのだそうだ。ともすれば暴れそうなほど、俺は混乱していたという。そうだあの人だ、車両に乗り込む時に一瞬だけ目が合ったような気がしたあの人。そう、そうだ、晴天駅や臨海駅で、何度か目にしたこともある。
(花島……)
 どういうつもりでこれを渡したのだろう、と紙切れのアドレスをポケットの中に握りながら家路につく。逆ナン?それとも単に、心配されている、というだけの。


 連絡を取るかどうかで一週間も迷っていた。一週間も気になるならメールすればいいんだと気づいたのが、花島にメールを送るきっかけになった。
 救急車で運ばれた日の人であることを確認し、礼を言い、吐いたせいで彼女の服が汚れてしまったことを詫びた。そこからしばらくメールのやり取りは続き、彼女からフルネームや年齢、駅構内のアナウンスで自分の存在が前から知られていたことを聞いた。
 花島智里。23歳。まさかの年上だ。客として見ていたときも駅員として見たときも彼女は童顔だったので、てっきり自分より年下なのかと思っていた。
「じゃああの駅の放送やってたときは19だったのか」
 心底感心した様子で彼女は言う。臨海駅付近のバス停である。メールをするようになって半月後、なにとはなしに映画を観に行くことになった。洋画のアクション物で、観たいと言い出したのは花島。俺もちょうどそれが観たい、と言ったら、じゃあ一緒に行こうか、という運びになった。
 花島は落ち着いた藤色のカットソーに、色素の薄いスキニーを穿いていた。印象より華奢で背もそれほどなかった。
「一回ホームで見かけたときも、年下だとは思わなかった」
「老けてるんですよ」
「大人っぽいってことさ」
 ポン、と自然に肩を叩かれる。動悸がしたが、落ち着け、と自分に言い聞かせて平静を装った。
「タメ口でいいよ」
 細い脚に、テカリのない地味なパンプスで彼女は姿勢良く歩いている。ほどなく一番街のシネマに辿り着いた。自動ドアを通る。
「……じゃあ…お言葉に甘えて」
「うん、ついでに、好きなように呼んでいいから」
「普段周りにはなんて呼ばれて?」
「花島」
 味気ねえ、とつい本音が口をついて出た。すると彼女は愉快そうに笑った。
「智里って呼ぶか?」
「なんかそれも、恥ずかしい」
「ハナってのもあったよ。高校のとき」
「ハナ」
 そのくらいがちょうどいい気がした。遠すぎず近すぎない距離感だ。
 ぼやぼやしているうちに彼女が券を二枚買い、受付を離れて指定の三番館を目指しながら自分の分の金額を彼女に払う。
「君はなんて呼ばれてる?」
 きみ。彼女の口調は若い女性にしては小気味よく、どことなく小説的で、少年っぽい。瞳も爽やかだ。
「……松」
「そうだよねぇ」
 ハナ、は笑った。
「マツでもいい?」
「どうぞ」
「じゃあマツで」
 アクション物しかハナは観に来ないのだそうだ。間違ってもラブストーリーの類にお金は出さないとか言う。どうせ途中で寝る、らしい。

 その日は何事もなく、映画が終わった後は喫茶店に入って他愛もない話をした。ハナが駅について話すことは一度もなかった。当然、気を遣っているのだろう。
 話していて思った。ハナは媚びない。それには好感を持てたけれども、もしや男として見られていないのでは、という思考がよぎって、地味にへこんだ。
 アドレスを渡してきたときのハナはもう少ししおらしかった。しおらしいのが好きだというわけでもないが、男を前に緊迫している女、は可愛いと思う。あの時と態度が違うのはやはり、俺に対する見方が変化したからなんじゃないのか。
「遅くまで付き合わせてごめん」
 喫茶店と飲食店を回って、なんだかんだで九時になっていた。俺が言うべきセリフを横取りされてまた少しへこんだ。しかしへこんでいる場合でもない。
「付き合わせたのは俺だから」
 いつまでもこの人のペースに引っ張られるわけにもいかない。男性的な、妙な意地だ。
 しかしそんなこちらの心持ちには気づいていない様子で、ハナはいかにも楽しそうに顔を綻ばせた。なんかこの人、能天気である。
「よかったらまた、一緒にどっか行こう」
 ハナが言った。その頃バス停に着いた。
 一緒に、という言葉に僅かに感動する。よかったら、などという表現にもしおらしさがにじんでいる。ような、気がする。
(考えすぎかもしれない)
 元来そういう性質なのは自分でも知っていた。よく言えば繊細、悪く言えば心配性、潔癖。相手のセリフをいちいち砕いて考えてどうするんだ、俺は。
 バス停には自分たちと、野菜を買い込んだ主婦と、イヤホンで音楽を聴いている若い男だけだった。時刻表を見ると次のバスまで五分である。
 すぐ隣にハナがいる。二十センチほどの違いだ。つむじが見える。黙っていれば彼女の外見は、内面のように少年には見えない。薄化粧で主張の少ない、しおらしそうな華奢な女性である。
 生理的欲求レベルの話で、意味はなかったが少し、抱き寄せたくなった。
(落ち着け)
 好きなわけじゃない人にそういうことをする必要はない。
 少々打ち解けただけで、俺もこの人も、お互いに特別な好意は持っていない。
「マツ」
 ぽつりと彼女が紡いだのでドキッとした。
 しかし平静を装うのは得意だ。
「ん?」
「今更聞くのも変だけど、いないの、彼女」
 彼女、という単語に心臓が跳ねる。
「……いたら、来ない」
「……そーか」
 そうだよな、とハナは口の中で言った。俺はなんだか動悸がしている。こら、そこのおばさん、こっちを見るな。
「……ハナは」
「数年、いない」
「数年……」
 切実といった響きが心にしみる。
 バスが交差点を曲がってやってくるのが見えた。
「数年いないと、いなくても生きていけるようになるんだね」
 ハナが言った。少し心細そうだった。
「……その割には」
「……え?」
「寂しそうに見えるけど」
「そう?」
 きょとん、としてハナが俺を見上げた。自覚がないのか。
 顔を見返すと、ハナの視線が止まった。なんか変な表現だが、彼女はこちらに見入っている。なんだろう。俺は気まずさを感じた。
「……今度はどこ行く?」
 目をそらしながら聞いた。うーん、と視界の外で彼女がうなっている。バスが停車すると、どこでもいいなぁ、と言われて力が抜けた。
 ちらちらとこっちに興味を示す主婦が乗り込み、若者が乗り込み、ハナが乗り込む。俺は次のバスだった。
「マツが一緒だったら多分どこ行っても楽しいだろうし」
 扉が閉まる直前に、ハナがそう言った。心底言っているみたいだった。エ、と発した驚きが、ドアが閉まりますというそっけない音声にかき消されてしまった。
 扉の窓越しに彼女は手をひらひらと振った。しょうがないので俺も、ひょいと手を上げて見せる。ほどなくバスは出発した。
(口説かれてると思っていいのか)
 でも、あの人は能天気なようだし、万が一ということも……
 喜んでいいのか分からないまま、一人、バス停に立ち尽くした。ただ、嬉しかったのは確かだ。

 その夜、ニュースで晴天鉄道の社長が出た。流れた映像は安全対策説明会の様子だ。社長の名前に、見覚えがあった。
 いつもなら晴天が出るとすぐにチャンネルを変えるのだが、手の動きが止まってしまい、画面脇に出た社長の名前を凝視する。やがて、思い当たった。
(……たまたま同じ苗字?)
 それともまさか孫か?
 社長という人は穏やかな顔つきだった。年の割には腹も出ていない、顔の小さな老人だった。年齢、73。背筋がピンと伸びている。
(いや、それはいいとして)
 携帯を開いてアドレスを探す。同じ苗字がそこにある。そういえば、メールをしたことはなかった。でも彼も穏やかそうな、爽やかな人だった。
 急にメールをするのも変だろうか。挨拶ぐらいしか交わさない仲だった。いや、だからこそ、今更メールをする価値もあるのか?
 入院翌日の私服の葛西さん、スーツ姿の助役や駅長に、体の拒否反応は出なかった。たとえ鉄道員でも制服さえ着ていなければ大丈夫。それなら、今メールをしたって、平気だ。多分。

 [Text]さっき晴天の社長さんがニュースに出てて
 思ったんですが、もしかして先輩と関係あるんです
 か?

 タイトルは、おひさしぶりです。本文は、単刀直入。変だろうか。変だな。でも、急に送ること自体変だし、もう別にいいじゃないか。
 思い切って送信ボタンを押して、あー送っちゃった、と思いながらベッドに寝転がり、そこでハナを思い出す。メールぐらいしておいた方がいいのか。いや、また後日でいいか。
 ふいに手の中で携帯が震えた。はっとして見ると、さっきの返事だ。早い。送ったタイミングが良かったのか。

 [Title]ひさしぶり☆
 [Text]びっくりしたー何事かと思った!元気にして
 る?社長はねぇ母方のおじいちゃんなんだけど(・・
 )さっき別の人からも同じメール来た(笑)
 ていうか松からメールが来るとかすごい嬉しい☆ミ

(社長の孫が……現業職)
 携帯を唖然と見つめた。別に社長の孫が現業職でもいいけど、なんか、なんというか。しかも最後の一文で既に話題が変わっている。どうでもいいのか?社長の孫とか、この人にとってはどうでもいいのか?
 「☆ミ」などにも癒されている自分がいた。なんだか力が抜けて、笑えた。メールを送って、よかった、のだ。
 一つ一つハードルを歩いて越えていくように、心にのしかかっている重荷のようなものがすっと消えていくように感じる。そうか、と思った。結局は俺が自分で動かなければ駄目なのだ。
 あの制服は一生克服できないかもしれない。しかし人生を諦めるのはまだ早すぎる。親の脛をかじって生きることに落ち着くには俺は若すぎる。
 気が向かなかった就職を、考えることにした。俺はまだ捨てたもんじゃない。この前だって、自分から駅に行ってみたじゃないか。思い付きだったが。俺は俺が思っているよりも前向きなのかもしれない。俺はまだ、やっていける。
 パソコンを立ち上げようとして、その前に、メールを返した。

 [Text]さらっと流しちゃってるけど社長の孫って
 すごくないですか?笑 なんかそういうとこ、半田
 さんっぽい気もするけど
 




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