葛西運転士と野村記者のオフレコ
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三大欲求なら七割性欲で二割食欲で一割睡眠欲だ。そう告げたら半田に「ばかたれ」と言われた。えらく低い声で、怪訝そうな顔つきだった。というか俺は、今の時代バカタレというセリフを二十三の若者から聞けたことにいたく感動していた。
「おまえは」
尋ねると、半田は小首を傾げて考える。
「…全部三割ずつぐらい」
「無難なこと言ってんじゃねー」
「だってほんとにそうなんだもん」
また怪訝な半田。あながち嘘でもないだろう。半田はむしろ三つのどれにも興味がなさそうに見える。とにかく眠りたいとか、うまいものが食いたいとか、ムラムラするとか、そういう情熱的なイメージが半田には欠けている。
そもそもなんでこんな話になったんだっけ。忘れた。
「半田って面白くないね」
「失礼な」
とはいえ、バカタレと言ったり失礼なと言ったりするところは面白い。普段敬語だが、俺がボケをかますと迷わずタメ口を選ぶところも。すぐに顔が赤くなるところも面白いっちゃ面白いのだ。
「三笠ちゃんとはどーですか」
「…どーって。いきなり。普通ですよ」
そっけなく言いながら少し照れている半田。
ああ、幸せなやつというのはどうしてこうも、腹立たしいのか。
「やってらんねー」
「なにが」
「人生」
「やめないでくださいね」
「やめないけどー…」
がくんとうなだれると、半田がポンポンと頭をなでてきた。うん、こういうところも、半田のいいところだ。許してやっても、いいな。
今更思うのだが、俺のバイ疑惑に直面した半田は、その後何を思うこともなかったのだろうか。例えば俺の仕掛けるハグに下心があるんじゃないかと疑ってみたりとか、俺に好かれている可能性もあるんだと悩んでみたりとか。
それとも半田は俺を親友だと信じ切っている。のだろうか。それはそれで素敵な話である。
肝心の俺の本心を言うと、別に半田をそういう目で見ることはない。体質的にむろんやろうと思えばやれるはずだ(何しろ七割がアレな人間で、ちゃんとバイだ)が、それは成り行き上ありえない。そもそも圧倒的に女が好きであるし。圧倒的に。絶大だ。女は絶大である。
あえて過去には触れないでくれ。ただし昔から七割だとだけは言っておく。それで十分想像には事足りるはずだ。小畑の一件もあるし。や、それで俺はこれでも比較的モテるほうだったので。
退院して職場に復帰してまもなく、適性検査を受けた。問題なかった。簡易試験もすぐに終わる。
もともと、早く運転士になってしまいたかった。しかし晴天車掌区が居心地よくて、ずるずると渋っていたのだ。
車掌は嫌いではない。むしろとてもいい。諸々の雑事は一年もすれば慣れてくるし、たいした話でもないがアナウンスというやつが結構面白くてハマる。
ただ正直俺は体がそれほど強くないので立ちっ放しは嫌いだ。そもそも対人関係が苦手である。接客が楽しいのは客が常識的で優しい時だけ。そんなの一般人レベルの感情だ。接客に向いてる向いてないとかそういう次元ではない。
いつだったかドアの前に座り込んでいた中学生だか高校生だかを怒鳴ったが、あれだって別に教育的意図を含むようなたいそうなものじゃない。たまたま乗り合わせた記者がそう解釈しただけの話。俺はただキレただけだ。
あとから聞いたら半田も「あれで多分ホレたんだと思う」などと朗らかに言っていたので、なんだか俺は申し訳なくなってしまった。
それで、まあ、研修を受けることに決めたわけだが。
そろそろ引っ越す準備をしようと思っていた某日晩、雨天。
公園で女の子を拾った。
野村遥だ。臨海線脱線で入院した際に正面の病室にいた子である。彼女は凍結道路で転倒して肋骨を折ったと言っていた。俺より半月ほど早く、退院していった。
その退院までに逢瀬ごっこのようなものをしていた。内容はただの散歩であるが。階段の上り下りの時は手をつないで導いたり、肩を掴ませて支えてやったりした。
地味な空気の子で、メガネのせいで表情も一見分かりづらいが、傍で見るとなかなかかわいい顔をしている。華奢だし、黒髪もつややか。多分一度も染めていないんだろう。
そんな彼女と二人で、病院の中や庭をうろうろするだけだったが、それなりに楽しかったと思う。普段は明るくてよくしゃべる子の方が俺はラクなんだが、病人ということもあって気が弱っているのか、相手が静かでおっとりしているのがかえって心地よかった。
そんな中、時々やわらかい手の平に淡く欲情してみたりもする。
唯一彼女が饒舌になる政治の話題も、退屈しのぎにちょうどいい。
野村遥。23歳。記者のタマゴ、である。
公園にいた彼女はずぶ濡れだった。聞くと、ルームシェアをしている花島とケンカしたなどと真っ青な唇で言う。
ともかく連れ帰った。見ていられなかった。玄関前で彼女の全身が強張るように縮んだのは分かったが、だからと言って放置はできないので、別に何もへんなことはしない、と唐突に宣言して、ポカンとする彼女を家に押し込んだ。
額に触れたが、熱はないようだった。浴槽に湯を張り、体を温めるように命令した。なんか野村遥は始終ポカンとしている。緊張しているのはもしかすると俺の方なのか。
(何だ俺は)
その問いが何だという感じだが、俺はタンスを探って野村遥に着せるものを考えた。ていうか下着はどうすればいいんだろう。若い女の子、オッサンのを借りるなんて嫌に決まっている。
誰か女の友達に電話でもして下着買って来させようか。でもこの近辺で女の友達なんかいないぞ。どうしよう。あ、三笠はどうだろう。半田に連絡して三笠に助けを求めれば。
即座に半田に電話をした。しかし、出ない。そりゃあそうだ。そういうもんだ。
「…………」
あさはかだったな。全てにおいて。
仕方ないので腹をくくり、俺は浴室の扉の傍まで行って話しかけた。
「ちょっと……着れるもの、買ってくる」
すると、え、と短い反応があった。そして何秒か沈黙が流れて、
「すいません」
という声が響いた。
下着を買ってきて戻り、ここ置いとくから、しばらく家出るから、と立て続けに言って、返事も待たずに玄関を再度出た。
添えたジーンズとトレーナーは、普段あまり着ないもの。
大丈夫、落ち着け、と言い聞かせながら、頭の隅で展開するパラレルワールド。数ある可能性の中で現実の俺が一番理性的かつ人道的である。
三十分を時計で計ってから、のろのろと部屋に戻った。
ドアを開けると石鹸の香りが漂ってくる。当たり前だ。
部屋の奥にちょこんと野村遥が座っている。
「おかえり」
ふいに、彼女は言った。
やめてくれ!と頭の中で誰かが叫んだが、平静を装ってただいまと呼応する。
「気を遣っていただいて」
居間に入っていくと彼女が頭を下げた。湿気を含んだ髪が揺れる。なんともいえない危機感で背中が一度だけ震えたような気がした。
「いい、別に」
短く言って、かなり離れた位置に座る。そうでもしないとこれはいかん。非常事態だ。23だしなどと無理矢理頭のどこかで思っていたところもあるが、冷静に考えると意味不明の説得である。23は子どもか?ばかじゃないのか俺は。
「仲直り、できそう?」
「……さっき電話してみました」
「どうだった」
「出てくれない」
と、言い終わるや否や野村遥は眉根を寄せた。な、泣くのか?それはさすがにやめてくれないか?
わざとじゃないのは分かっている。そりゃあ一緒に住むぐらい好きな友達と、大きなケンカをして、仲直りを試みても出来ないんだから、悲しくて普通。泣くぐらい想像の範囲内。そう、俺が耐えるべきだ。耐えるべきだ……
「…………」
野村遥は、ただじっと、うつむいていた。声は発しない。息を殺している。その時に直感した。彼女は、もう、泣かないだろう。
雨に紛れてそういえば泣いていた。しかし今は雰囲気が違う。正座した膝の上で拳を握っている。なんだその男性的な手の置き方。もともとの性格がそうさせるのか、あるいは俺への配慮なのか。
「……もうちょっとしてから、またかけてみたら?」
部屋の隅から彼女に声をかけた。
彼女は無言のまま、こくりと一回頷いた。
雨は夜中まで降り続けた。彼女が眠そうに揺れていたので、ベッドに促した(口頭で)。
横になった彼女を一切見まいと思っていたのに、話しかけられて見てしまって理性の一角が砕ける。やっぱりメガネがない方がかわいい。
「私だめだ」
野村遥は独り言のように言った。視線は天井に向かっているが、もっと遠くを見ているようでもある。
「…なんで?」
「妬いたんだと思う…花島の彼氏に」
「……それは」
「別に深い意味じゃないけど」
それはまるで誰かのようだ。
「前の彼氏のときは私も知ってる子だったからそれほどじゃなかったんだけど、新しい人は私全然知らない人だから、余計につまらないのかもしれない」
淡々と彼女は述べた。暗い声だった。多分自分を軽蔑しているのだろう。
「やってられない」
「……」
俺は人知れず半田を思い浮かべていた。こういう時半田は、頭をなでる。俺は三笠がどんな人物か知らない。俺はお前にじゃなく、三笠に妬いてんだよ、半田。
それだったら池町さんの方がまだマシなくらいだ。彼女である齋藤は面識があるし、おおよその性格も知っている。当然妬けるが、仕方のないことだ。泣きたくなるほど悔しいが、仕方のないことだ。
(なでたい)
共感と、その影に隠れる情欲。いっそずっと隠れていればいいのに。
とかなんとかぐるぐる考えながら立ち上がってしまった。
そうっと歩み寄り、ベッド脇に座る。
手を伸ばしてからやはり躊躇し、しかしそのまま、髪をなでた。
「…………」
野村遥は静かに目を閉じる。また一角が崩れ落ちた気がする。なぜ俺はこんなことばかり繰り返すのだ。こんなことばかり。もしくは無防備な、女の責任。なんでお前は今、目を閉じる?キスを待ってるように見えるぞ。
心が追いついているかどうか自信がなかった。そもそも、好きかどうか悩む時点で、好きと言うには足りないのだ。きっとそうである。だが。
目を彼女からそらして、中庭でたむろした昼下がりを思い返した。あの時確かに瞬間、好きだなと思った。多分ああいう瞬間をもっと積み重ねられる。時間さえあればよかったのだ。そして順序さえ狂わなければ平凡だったのだ。
彼女に視線を戻すと、目が合った。彼女は目を開いていた。少し眠そうにしている。そのまま眠れ。襲いかかってしまう前に眠れ。眠ってくれた方がやる気は失せる。間違いなく。罪悪感を覚えながら人を抱く趣味はない。
ふいに彼女の手の平が俺の頭をなでてきた。なぜだろう。なで合い。しかしすぐに俺の手は止まった。なでる代わりにキスをした。
その直後の彼女の目尻から涙がこぼれ落ちていった。
もう一度キスが許される。
頭をなでていた右手で、伸びてきていた彼女の手を握った。中庭の穏やかな空気がよみがえり、心にしみる。そしてその手の平は、脳を痺れさせるほどに、やわらかい。
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