A-03

 朝起きてまずすることといえば、昔は「トイレ」だった。今は携帯を開いてメールを確認すること。最近になるとパソコンで使うフリーメールも、携帯の画面からチェックするようになった。時代の変化に、体質の変化だ。そうまでしないと落ち着かない。
 午後出勤の某日、いつものように携帯を開くと、半田からメールが来ていた。受信時刻は朝7時。早起きなヤツだ。

DATE: 3/ 8 7:13
FROM: 半田幸浩
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 今朝プレゼント届きました!!
 ありがとうございます☆☆ミす
 ごく気に入った!
(>△<*)ノシ
 まだちょっと肌寒い日もあるん
 で風邪とかひかないように気
 つけてくださいね☆あっあと
 引越は31日になりました。一
 応うちの母も来ますけど、よ
 かったら手伝いに来て♪(笑
 )

 半田にしては珍しく、顔文字を使っている。顔文字ユーザーは主に俺で、半田は絵文字を多用する(色が綺麗だし、顔文字ほど面倒じゃないからだと思う)。どういう心境にせよ、半田のは格別かわいく見えた、「
(>△<*)ノシ」。
 彼の誕生日は3月8日、今年は日曜日にあたる。今日だ。
 定形外郵便で指定日届け、しかも指定日が日曜の場合は+200円であることを今年初めて知った。これまではずっと手渡しか、会えなければ会えた日に渡していた。そもそも、たいそうなプレゼントを男友達にあげること自体が珍しい。あげたいと思ったところで、あげられるか?笑えるものならあげられるだろうが、恋人同士のようなチョイスは場合によっては気持ちが悪い。
 池町さんに一度、あげたことはある。誕生日はずっと前から情報を仕入れて知っていたのだが、何か物をあげるかどうかは悩んでいて、結局当日まで何も買っていなかった。
 当日、彼の誕生日を口実にわいわいと飲みに出た帰り、ほろ酔いで某神社境内を横切った(まちなかにある。夜は小さな明かりでライトアップされ、観光客やカップルがうろついている)。
 ちょうど祭事の期間中であったこともあり、その頃の時間までやっていた売店を、巫女さんたちがせっせと閉めていた。俺はそこに駆けつけて、まだいいですか、と妙に歯切れよく言った。
 ざっと見渡して目についた碧の数珠を買った。腕飾りで、安いものだったが、戻っていってそれを池町さんに差し出した時の緊張は今でも忘れられないくらいだ。
 酔いにごまかされていた「引かれるかもしれない」という恐怖が、夜風に頬を冷やされるとすぐに胸をせり上がってくる。ひどく驚いた様子の池町さんは文字通り瞠目し、数珠を受け取ってからは俺をじっと見つめていた。見られているだけで沸騰しそうだった。やがて彼はしかし、素直にありがとうと言って、嬉しそうに笑うと、おもむろに数珠を手首にかける。俺は、鼻血が出そうになった。
 その数珠は今、池町さんの鞄に、その他のキーホルダーたちとともにぶら下がっている。その扱いについてどうということは思わない。むしろつけてくれているという事実が信じられないほどだ。今は、ヨメさんもいるのに。
 ただ、今回半田に同じ事をされたら、俺は「気に入らない」と思ってしまうかも。図々しい話だ。
 それは状況の変化と、心境の変化によるところだと思う。

 さて31日の引越というやつだが、その前に半田の今について説明する必要があるだろう。
 半田は、一度春日大学院大学に入学し、卒業した後、晴天には戻らずに臨海電力のグループ会社に転職した。半田はその中でも技術系で、原子力に代わる新しいエネルギーの実用に向けて付近の大学研究機関と実験設備等を共有しながら研究している。というとなんだか雲の上の人間になってしまったみたいだが、相変わらずのメールだし、雲の上に行く前も星はよく流れていた(☆ミ)。
 それが数年前の話で、しばらくは多忙のためほとんど暇がなかったそうなのだ。現に俺もあまり半田と会う機会は得られなかったし、メールが数日返ってこなかったこともあった。この間、半田はずっと春日大のそばのアパートを拠点にしていた。
 今年、半田は研究チームのリーダーになったそうだ。
 だからといって仕事が減ったわけではないが、何より気持ちに余裕ができたということで、とりあえず引越をしたいという。まあ春日から臨海だから、遠くはない。
 俺は相変わらず臨海の独身寮に住んでいるから、これでまた少し距離が縮まった。
 確か臨海区の住宅地、最も海に近い場所だったと思う。俺は月末に初めて、手伝いがてら見に行く。ただどちらかといえば、家よりは半田の顔を見に行く気持ちだった。


 臨海駅の南口を出て、海沿いに道路を歩いた。防潮堤と住宅地がどこまでも続いている。いい天気だった。風が強く、潮が香った。
 気がつくと歩調が早まっており、意識して足を緩める。この辺りの家は昔ながらのものが多いのか、一階建てもザラだった。年季の入った白いプランター、繁茂する雑草と共存するパンジー、なんでもないところから生えて花を咲かせ始めている菜の花。俺は全てに気を配った。急ぐ必要はない。もっと気持ちに余裕を持て。
 その流れで何気なく顔を上げて歩くと、真西の空が開けている。その先には、見えないが地の果てがある。何年か前に半田と二人で行った立ち入り禁止地区、思えばあそこに行った頃から、半田の様子はおかしかった。
「ほんとは車掌より研究の方がしたいんじゃないの」
と言ったのは俺だ。ただ、言わなくてもいずれ半田は決断していたと思う……思いたい。
 俺ももともとはマスコミ業界志望だったのだから、意図せぬ業界に生きている状況は同じだ。ただ、俺はもう鉄道に根を張ってしまった。一度進んだ道で、なかなか楽しいと思ってしまって、引き返す必要がなくなった。
 一度進んだ後に引き返すのは不安だろう。複雑だろう。それでも、半田は戻っていった。
 半田は自分を嫌いだとか無気力だとか言っているが、充分芯が通っている。半田そのものが核だから、自分が見えなくて卑下するのか?それとも見えているのに、自分を肯定的に見るのが怖いのか?あるいは極度の謙遜なのか。
 本人の代わりに他人が愛してやる道もある。ただし見返りを期待してはいけない。
 自分を愛せない本人が、自分を超えたところにある他人を、愛すことができるかどうか。
 他人と距離を置いている人間は、自分とも距離を置いている。

「あっウワサの葛西さん?」
 いかにも引越作業中のアパートが見えて、入り口付近をうろついていると、エプロン姿で腕まくりをした中年女性がひょいと顔を出した。明るい声だが耳に心地よい優しさで、俺は彼女に半田を連想した。恐らく彼女が、半田の言う「おかあさん」なんだろう。
 とことこと彼女がつっかけで出てきたので、ぺこりと頭を下げて見せる。
「葛西です」
「幸浩の叔母の睦ですーはじめまして」
 人当たりのいい顔で睦さんは微笑した。確かに、顔立ちは一切似ていない。
「ちょうどあの子、お昼買いに行ってて、今休憩中で」
「あ、そうなんですか」
 もう二時半だが。
「引っ越し屋さんとお茶飲んでるとこなんで、一緒に」
「や、すいません」
 やや年季の入った階段のアパートの二階、隅の部屋だ。緊急用の連絡階段の真横の部屋。壁は塗り替えたのか清潔に白く、日光が眩しい。晴れた空によく似合う。
「築何年くらいですかね」
「確かねー20年だった気がする」
 そんなもんか。睦さんの後を歩き、問題の部屋にまもなく着く。開け放たれた玄関にダンボール箱が積まれ、発泡スチロールの欠片が転がっていた。中に入ると、ベランダで引っ越し屋の若い茶髪の青年がお茶を飲んでいた。
「助っ人参上」
 助っ人本人でない睦さんが青年に告げる。青年は、わずかに微笑してひょいと頭を下げた。
 ベランダからは内海が一望できる。防潮堤を越えた先に茫漠とした水平線。平たく南西に見えるのは南西州。多分一生行くことはない。
「そうそう、もしかしたらじっちゃんも連れて帰ってくるかも」
 睦さんの声が近づいた。見ると手には入れたてのお茶が湯気を立てている。
「ありがとうございます……おじいさん?」
「半田良一郎氏」
 ……社長か!
「…手伝いに来られるんですか」
「様子見程度じゃないかなぁ。ご年配だからね」
 社長と言えば、年相応でない姿勢の良さと体型、日本人の老年にしては長身の、ビジュアル的にも目立つ人だ。不思議なのは彼が半田のじいさんであることで、もっと不思議なのは半田が全然その血縁関係に頓着していないことだ。
 しかし、そうか、社長が来るなら先に聞いておきたかった。来る時間帯が分かっていれば、そこを避けて手伝いに来れたのに。それとも突然来ることが決まったのだろうか。
「ただいまー」
 ふと懐かしい声がした。一斉に顔を向けた先に、ほどなく半田が顔を出す。
 目が合うと彼の目が輝いた(ように見えた。俺の妄想かもしれない)。
「葛西さん!」
「…よ」
 半田は若草色のセーターを着ていた。やわらかそうな髪は少し伸び、車掌をしていた頃より少し顔の輪郭が優しくなったように感じる。あの頃は痩せ過ぎだったから、今くらいがちょうどいいのかもしれない。
「ゆき、じっちゃんは?」
「会えたけど。帰っちゃった」
 会えた、と報告する半田の眼差しが優しくて、俺は一瞬だけ見とれた。半田は社長と話す時も、こんな温かい面差しで社長を見るのだろうか。
 半田は居間の中央に買ってきた弁当を並べた。そしてふと、あ、というような顔で振り返った。
「葛西さんはお昼食べてきたんだよね」
「そりゃ、まあ」
「よかった」
 今日も半田の気配りは健在。そんなに周りに細かく気を遣って疲れないか?職場じゃあるまいし。とはいえ、それは半田の人格なのだろう。だから余計に、俺は彼を尊敬している。
 じっと半田を見ていたせいか、引っ越し屋の青年が様子を伺うように俺を観察していた。俺は一瞬居心地の悪さを覚えたが、もう一度半田を何となく見ると、少し落ち着いた。


「悪くないでしょ」
 作業が終わり、半田、睦さん、俺の三人はアパートの正面から、その全体像を眺めた。日は暮れかけていて、絶妙な色合いの夕焼け空にも、白いアパートは似合っていた。確かに、いいところを見つけたもんだ。
 ふー、と睦さんが達成感に溢れる背伸びをする。
「葛西さん、一緒に夕飯どう」
 すっかりフランクになっている睦さんの笑顔は屈託がない。俺はつい、断るのをためらった。本来なら親子水入らずで食事させてやりたいものだ。睦さんは、わざわざ沼町から来ているというし。
「えー…と。でも邪魔したくないし…」
「なかなかこういうメンバーになることないんだし、いいじゃん」
 実にさっぱりと睦さんは言った。彼女の向こうで、半田もこくこくと頷いている。
 ここまで言ってもらえるなら遠慮することもないか。
「そういうことなら」
「よし、決まり!」
 そういうわけで、俺たちは臨海中心街へ戻って夕食をとることになった。一番年上の睦さんが一番はつらつとしていて、茶目っ気がある。半田が対人的に優しく明るいのは、彼女の影響が大きいのかもしれない。
 とりもあえず、「葛西さん中華好きだったよね」と半田が言い出したおかげで、申し訳ないことに中華料理屋に入ることとなる。
 だから全くの偶然だった。俺がいなければ、あるいは半田が中華の話を出さなければ、あるいは歩く道筋が違っていれば、別の飲食店に入っていただろう。
 奥のテーブル席に、社長とスーツの面々が陣取っていた。雰囲気から察するに、全員が晴天鉄道上層部の役員だ。
「じっちゃん!」
と、店内の喧騒に紛れて睦さんが驚きの声を上げ、社長がこちらに視線を向ける。
 一瞬表情を失ったように見えた彼は、しかしすぐにうっすらと微笑し、軽く手を挙げて見せた。俺は素直に、その所作に憧憬した。ちらと半田を見ても、概ねそんな感情を抱いているような顔をしている(と、思われる)。
 店の入り口に近いテーブル席につき、こちらの話題は少しの間、社長に集中した。
「相当モテたらしいよ、若い頃」
「そうなの?」
「ゆきちゃん聞いてないんだ」
 睦さんが意外そうに言うと、いかにも怪訝そうな顔をして半田は背もたれに反っていく。
「あんまり自分からそういうこと話してくれないんだもん」
「ていうか、今でもモテるんじゃね?」
「あ、私もそう思う」
 背高いし、メタボとは無縁だしねえ。睦さんはメニューをぱらりとめくった。
「あと、ほら、照れ屋なんだよね、じっちゃんは」
「…でもおれ、嫌いって言われたことあるよ」
「誰に?」
「じいちゃん」
「ウソォ」
 一同唖然。もっとも、睦さんは半信半疑だ。すぐに微笑する。
「口先で言うことなんかアテになんないって。第一、孫を嫌うじっちゃんがいるかっての」
「そりゃーそうだけどー…」
「結構よく私聞かれるよ、じっちゃんに。ゆきちゃんの様子」
 俺はその一言に納得した。唖然としているのは半田一人だ。
「ウソォ」
「ウソなわけいないじゃん。私天津飯にしよう」
「あ、俺チャーシュー丼にしよう。半田は」
「いや、え…じゃぁ…中華丼」
 すいませーんと睦さんが声を張り、半田は再び得心のいかない顔に戻った。腕組みをして黙り込む。
「…半田?」
「……なんかすごい照れる」
 険しい顔で、そんなことを言う。その反応は照れ隠しだろう。
 半田も照れ屋だ。
「一回ちゃんと話してみたら、ゆきちゃん。晩御飯でも誘ってさ」
「…連絡先知らないよおれ」
「おお、そうだっけ。待って、携帯教えてあげる」
 そこで店員がやってきて注文を済ませた。後に、二人が携帯を開くのを見ながら、俺は奇妙な感覚と素朴な疑問を抱いていた。睦さんは半田の叔母さん。社長はおじいさん。おばあさんは確か地の果て工場勤務で、例の大事故で亡くなったと聞いている。それなら、両親は?半田が生まれているんだから、大事故以前に親はもう生まれていて無事だったのだ。
 聞く意味があるのかどうか。親のことは半田本人には関係ない。俺の場合は自分の両親についても少しワケありなので、余計に聞いていいものか迷う。聞かれて困る答えが存在するとすれば、困る。
 そもそも、同じ会社にいる人間とこうも近い血縁関係があるのになぜそれに頓着しないのだろう。なぜまるで他人のように付き合うのだろう。社長と、社員だからか。しかし、見ているとそれだけでもないように感じられる。それがなんなのかはうまく説明できない。でも純粋に、孫が祖父の携帯の番号を知らないというのは(実際に連絡を取らないにしても)、変わっているような気がする。


 その日、睦さんは半田の新居に泊まる。俺は翌日、乗務があるので寮に戻る。
 駅前で別れる際「またメールする」と半田がなにげなく言ったセリフが、帰り道に延々と頭の中を回っていた。今日の半田は、あげたブレスレットをちゃんと腕に巻いていた。お揃いに見えるのが嫌で、俺はしっかりシャツの中にネックレスを隠していた。隠しながら、今日の自分の機嫌がいいことを、自分で感じていた。
 気になったのはブレスレットが二つ巻かれていたことで、一方はなんだか前にも見たことがあるような。三笠からのものかもしれない。
 文句を言う筋合いはなかった。鳥類まで合わせたものを黙ってつけてくれてるんだから、満足だ。
 店に並んでいたブレスレットの中では一番、カモメのブレスレットが半田に似合っている気がした。他にヤタガラスとかツバメとかもあったような気がするが、半田には、空と海両方(どちらも広くて大きい)が連想できるカモメが、一番だったのだと思う。もちろんこんな細かいことは、買った後に気づいたことだ。
 寮につく頃、メールが来た。
 まさか半田じゃないだろうなと思ったら、本当に半田ではなかったので少し凹んだ。しかし、キッカだ。源菊華(みなもときっか)。行きつけの美容室の美容師で、とても落ち着いた趣の女の子だが一回りも年下である。ちなみに、親父さんが競馬好きだったとかなんとかで、その名前になったとか。
 彼女と「付き合う」という形を取り始めて、数年経つ。

DATE: 3/31 21:42
FROM: 源菊華
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 入手!一緒に行かない
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 その、無駄のなさ、シンプルさが、俺は好きだった。彼女の話はまた追々する機会があるだろう。彼女とは体の関係もある。彼女は俺が男を好きになることを知っている。そして今も、危うい状況に俺が立たされていることを、知っている。
 行き過ぎた親友のような関係に、彼女は不満を抱いていないのだろうか?



 話は戻るが、数日後、俺の疑問にタイムリーな展開が訪れる。
 半田が社長から両親の情報を得て、俺に相談しに来るのだ。




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