A-02
晴天区の最西端に芝の青々とした良質なピッチがある。千里13、中心街からバスで20分の位置である。
長身で切れ長の目をした男が、少女たちの試合を眺めていた。他にフェンスに張りついている大人の大半は母親たちであるので、男はとりわけ目立っていた。
ピッチでは女子サッカーのジュニアユースが試合をしている。晴天対臨海。臨海のジュニアユースのキーパーは男の娘だった。父親に似たのは背の高さだけで、母親から受け継いだ愛くるしい丸い瞳を張り詰めてはるか前線のボールの動きを追っている。レギュラーが取れた日、お祝いをしようと提案したら、試合に勝ってからでいいと当然のごとく断られてしまった。男はその時、静かな感動を覚えた。
ふと、ピッチと観衆の母親たちが沸く。臨海がシュートを決めたのだ。細かくつないで最終的にはミッドによるゴール。しかもどうやら、鮫島の娘らしい。
かつて晴天で男と共に働いた鮫島は今、天つ空区で特急運転士をしている。
数年前に生まれた四人目の子どもは念願の男児で、魁一(カイイチ)と名づけられた。片目が先天性白内障だが術後の訓練で視力も回復してきているらしい。鮫島に似て愛想のいい子で、その都度アイパッチの色を自分で選んで「オシャレ」だと歯を見せて笑うのだ。(アイパッチは片方の目の視力が落ちるのを防ぐための訓練として使用する。使い捨ての絆創膏のようなものから、繰り返し使える布製のものまで幅広い)
男の娘の唯(ユイ)が特に、その魁一と仲がいい。年は四つ離れているが、ほとんど弟扱いだ。なにしろ鮫島家とは家が近いせいもあって、公園に行くとよく遭遇するのである。鮫島家が四人、市河家が二人で、あわせて大姉妹のようなあんばいだ。
春風が吹いて、なにとなく男の視線は動いた。
フェンスの親集団に鮫島家の父母の姿はない。確か共働きだった。今日も無理だったようだ。ちなみに市河家はそうではないが、妻はなかなか外には出られない。
「あの人?」
不意にどこかから小声が聞こえた。男は地獄耳である。慣れているのでもうどう思うこともない。それに噂する心理も分かるのだ。市河紗苗が病弱な専業主婦であることは、母親集団にはもはやほぼ漏れなく知れているわけであるし。
聞こえていないふりをしてフェンスの向こう、唯を見つめた。ちょうど試合が終わり、ホイッスルとともに細い腕の拳を天に突き上げる鮫島の娘・愛莉(アイリ)が、いつものように唯と抱き合おうと駆けていく。駆ける途中で他の少女たちに次々抱きつかれ、志半ばでピッチに転がる愛莉を見てか、唯は愉快そうに笑っていた。
「愛莉のゴールで勝ったよ。1-0」
と市河はわざわざ鮫島にメールを入れてやると、ちょうど帰り支度の済んだ唯と愛莉を見止めて手を振った。鮫島夫婦のどちらも来られない日はこうして運転手を務めるのが市河夫婦の仕事だ。もっとも、実動はほぼ夫のみである。
「ユーリのおばさんが、東吾イケメンだって言ってた!」
愛莉が走ってきた勢いで市河に突っ込み、ぱっと顔を上げて報告した。あとから駆けてきた唯も、愛莉ごと彼の腰に抱きつく。楽しそうに笑っている。
そうか今日の母親たちの話題は、プラス方向らしい。妻についての話題でなくてよかった。
「俺イケメン?」
「イケメン!」
「やったね」
「やったね!」
愛莉が市河を名前で呼ぶのは、鮫島のせいだ。彼が市河を東吾と呼ぶから、四人の子どもも真似をする。対して市河家の子どもは鮫島をおじさんと呼ぶので、彼は少し寂しそうである。
二人を後部座席に乗せ、一行は海沿いの古き良きアイスクリーム屋へ寄るべく迂回する。屋台の店で、何年も前から地元の婆さんがやっているのだ。春から初夏、秋口が営業期間。真夏は体にこたえるので、変な話だが休業である。
後部座席でじゃれ合う二人はもう既に試合の勝利を忘れているのか、どうやら学校の先生の話をしているらしかった。それにしても、いい昼下がりだ。気持ちのいい晴れ。子どもたちと妻を連れてドライブに行きたい、と市河は思う。
ハンドルを切って角を曲がり、いつものスポットに出た。しかしアイスクリーム屋台は見当たらず、あれ?と市河が声を漏らすと、後部座席の二人も外に気を取られた。
「アイス屋さんいないなぁ」
「おやすみ?」
「いや、日曜はやってるはずなんだけど」
彼は一度路肩に車を止め、もう一度全方向を見渡す。やはりいない。それからほどなく、静電気のような嫌な予感が背筋をかすめた。
「アイス屋さん、風邪かも」
愛莉が推測し、ははぁ、と唯も納得している。風邪ならいいが、と市河は心の内に思った。そして一息ついて、車を発進させる。
「スーパー寄ってくか。今日はそこでアイス買おう」
「アイスアイス」
「スーパーアイス」
「スーパーアイスって」
唯がウケる。そしてほどなく助手席に置いていた携帯の受信音が鳴った。
メール来た、と笑いを収めて身を乗り出した唯が、サブ画面に表示された送信者の名前を読んでくれる。
「シャー…ク…アイ…ランド」
「東吾、外人さんの友だちいるんだ」
シャークアイランド愛莉の感動をそこではあえて壊さず、市河は、まあね、となんでもないように答えて笑った。
唯の妹の亜弓は、市河に似て切れ長の目である。どうやらショートカットが好きらしく、そんな頭で剣道着をまとっているのを見ると、なんだか昔の自分がそこにいるように見えて不思議だ。
サッカーよりは野球派で、しかし剣道には敵わなかった。競技そのもの以前に袴も好きだったし、道場の床を踏む裸足の感覚も好きだった。確かに自分がそこに立っている実感があった。それでいて剣士であるから、今を生きながらにして時代を超越している気も、今思えば、していたように思える。
剣道といえば、既に引退していたが就職先が決まり、部に再び顔を出した時のことが印象的だ。あれが剣道については一番新しく、同時に最後の記憶でもある。
そう、懐かしい。ものすごく強い一年生がいるというから、一度やってみようという雰囲気になって手合わせした。なにしろ、市河は前年度の部長だった。盛り上がらないはずがなかった。
いいですいいですから、と恐縮しまくって真っ赤になっていた問題の一年生に竹刀を持たせ、強引に対峙した。
空気はすぐに変わった。
集中すると剣道場は二人きりになる。もちろん精神面での話だ。心持ちとしては、周りの人間が柱か壁と同じ扱いになる。それは相手の質によるところでもあり、お互いの集中度が相乗効果となって表れる。
かの一年生は静寂をまとっていた。本当に静かだった。冷めているというか、透き通っているというか、血が通っている感じがしないというか。ともかく、うまく言葉では言い表せない。
そして市河はほどなく敗北した。驚きの歓声に緊迫の糸は切れ、恥じる間もなく市河は観衆に混じってスゲエを繰り返した。しかし微妙なショックが、その日はずっと続いた。いつもほどの食欲もなく、その晩はゲームもしないで寝ることになった。
案外、本当にショックだったのだろう。そういう細かい影響は覚えているのだが、その一年生の顔と名前がなぜか思い出せない。仕方ないといえば仕方ないのかもしれなかった。今となってはもう十年も前の話だ。
中心街に入り、今日は剣道教室に寄る。少し長引いているらしく、竹刀を打ち合う音と高い声が飛び交うのが聞こえた。
「亜弓がね、おとうさんみたいになりたいって言ってたよ」
唐突に唯が告げる。
「そうなの?」
振り返ると愛莉もこくこくと頷いている。
「将来の夢、東吾だって」
「俺になりたいのか」
だから髪も短くするのだろうか。また市河は路肩に車を止め、二人としばらく竹刀の音を聞きながら、十年前のあの一年生に受けた胴の衝撃を何の脈絡もなく思い出していた。そういえば異常なほど赤面して対峙を嫌がっていたということも。
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