細い体


 ついに今年の初夏、旧地の果て駅撮影ツアーが内々に組まれることになった。今回も僕のところには告知の葉書がくる。三年ぶりだ。やはり差出人の名前の代わりに、晴天快速と瓜二つのシンボルマークの印が押されていた。
 最後のツアーは僕が大学三年生の晩秋に予定されていた。しかしやはり誰かの密告で、決行は叶わなかった。
 それまで年に一度の頻度で計画されてはあえなくついえてきた撮影ツアーだったが、これを最後にしばらく息を潜める。
(どういう人選だろう)
 誰がスパイか検討がついたということだろうか。つまり今年は本気で決行する気だということ?
 旧地の果て駅とは、例の沖合いの発電所「工場島」に残されている廃駅だ。かつては晴天線の終点駅だったが、放射能漏れ事故を境に立ち入り不可となった。
 分かりやすく言えばこのツアーは廃駅巡りの一環だ。しかし旧地の果て駅は極めて危険なレベルの地区なので、条例で立ち入りが禁じられている。
 しかし外国のどこかでは、危険な地区でも愛着ゆえに住み続けている人々もいる。
 ただちに死ぬわけではない。
 生まれれば誰でも死ぬ約束をしている。
 だからいつ死ぬかが大事だとすれば、それは個人の考え方に大いに委ねられていることになる。
 でも一つ僕たちは、大事なことを忘れているのだ。



 某日深夜0時過ぎ、荒野線、晴天行き普通電車、抱笛駅に着いた直後のことだった。池町運転士から無線が入った。今すぐ来て、とだけ彼は言った。
 わけがわからなかったが、恐らく出発できる状態ではないのだ。僕はホームに降りて一両目へ走った。
 八両編成は閑散としている。座席をベッドに寝ている人がちらほら。駆けながら、何秒ロスだろう、と頭の隅で僕は思った。
「半田!」
 一両目に飛び込んでいくと、池町運転士が切羽詰ったように呼んだ。僕は一瞬体が強張るのを感じた。そして次の瞬間、全身の血が一気に逆流したかのように嗚咽感を覚える。
 池町運転士が、華奢で色白の女性を羽交い絞めにしていた。彼女の右手にはカッターナイフ。既に誰かの血を浴びている。
 足元には、スーツ姿の若い男が転がっていた。腹を押さえて険しい顔つきで、その手に血が飛んでいる。
(刺した?)
 女性客と目が合う。彼女は狂気の宿った目を大きく見開いて、同時に号泣していた。そのような表情に見覚えがある。
 僕は駅員になりたての頃、痴漢を取り逃がしたことがある。すぐに人ごみに紛れてしまった人を、僕が拘束することはもうできない。
 泣いていた女子高生の顔に、何かがとりついているようだった。
 青いくちびる、真っ赤なウサギの目、冷え切った手の指、決してそんな力はないはずなのに誰かを殺してしまいそうな狂気を宿した視線。
 一足遅れて抱笛の駅員が駆けつけるのが視界の端に入った。女性の駅員だった。彼女は、暴れる女の手を見て硬直する。
「――落ち着いて」
 僕は呪縛から解かれたように一歩前へ出て、女に呼びかけた。
 次の瞬間、女はカッターをやみくもに投げつける。すんでのところで僕はそれをかわした。遠くで刃が折れ、床をカッターが滑っていく音がする。
 凶器がなければもう、怖くない。
「大丈夫だから……」
 倒れている男をまたぎ、腰を低くしながら近寄った。よくよく見ると女はまだとても若かった。垢抜けていないのがよく分かる。化粧もしていないし、胸も腰もできていない。間違いなく十代なかばだ。
「……もう大丈夫」
 できる限り静かに話しかけると、女の動きは目に見えて鈍っていった。
 そしてやがて瞳に正気が戻り、気絶するようにへたり込んでしまった。


 女は地元の中学生(15)、友人宅から帰る途中だった。痴漢にあうのは初めてではなく、脅し程度に使うことを目的にカッターナイフを所持していた。しかし問題の夜は予想以上に暴行がひどかったので、我を忘れて相手の男の左脇腹を刺した。男は晴天区役所職員(25)、泥酔していた。事件二十分後救急車で病院へ運ばれて治療を受ける。命に別状はなかった。


「なんで痴漢って分かったんだ?」
 後日取調べがあって、その後で池町さんに聞かれた。彼は腕にバンソーコーを貼っている。少女が暴れたのでとばっちりを受けたのだ。
 そういう僕の方も、うまく避けたつもりだったがカッターの刃が耳をかすめていた。早くもカサブタになっているが。
「……女の子の表情で」
「表情で分かるもんか」
「たまたま、なんとなく」
「すげえな」
 心底感心したように池町さんは言って、背後に入線する臨海線快速に気をとられる。僕もつられて見やった。海の色の車体に、夏の日差しが白くギラつく。
「…落ち着かせたのもすごかった」
「…たまたまなんですけどね」
 いくつか自分で考えていたことがある。絶対に威圧的に接してはいけない、絶対に触れてはいけない、できるだけ「男」を感じさせてはいけない。
 少女にとってはあの男一人だけでなく、男全てが恐怖の対象だったはずだ。だからあの時僕は、自分で思う「男らしさ」を全て捨てて接したつもりだった。結果的にはそれが良かったのか何なのか、少女は落ち着いた。
 男全てが怖くなるのだということは、三笠から少し前に聞いていた。彼女が痴漢に初めてあったのは中学時代で、しばらくは電車にも乗れなくなったそうだ。そこから立ち直って、鉄道会社に入って、乗務員にまでなったのだからすごい。
「じゃあな。おつかれ」
「おつかれさまです」
 池町さんとはすぐに別れた。
 その後特に用事もなく、少し迷ってから寮に戻ると、玄関で鬼頭に出くわして彼を部屋にあげてやることになった。
 そして、しまい忘れていた葉書を発見されてしまった。



 行くんですかコレ。
 鬼頭に詰め寄られ、僕はたじろぐ。たじろぐ必要もないのだろうか。しかし、叱られているような気分だった。
「やめてください」
「……行かないよ」
「ほんとだろうな」
 ふいに鬼頭が敬語を捨てる。僕は、ほんとだよ、と彼の体を押し戻した。抵抗感があった。鬼頭は納得していない様子だ。
 耳の傷跡が唐突に、チリと痛んだ。
「おれは、心配してるんですよ」
「うん」
「分かりますか」
「分かるよ」
 それでも鬼頭の顔は晴れない。
 結局彼にしては珍しく、メシ時までに帰ってしまった。取り残された僕はまるで見捨てられたような心持ちになって、床に落ちた葉書を見つめた。なにか、寂しい。満たされない。
 こういう時どうすればいいのだろう。淡い倦怠感と退屈さで、体がだるい。眠くもないし、腹も減らないし、自慰の気分でも散歩の気分でもない。
 多分、誰かに会いたい。
 誰でもいいわけじゃない。誰ならいいのだろう。空気よりはヒトらしく、ヒトよりは空気に近い誰か。そんな人いないだろうか。いないだろうな。それは三笠ですらない。鬼頭も違う。池町さんも違う。葛西さんも――違う。
 葉書の印は、にじんで翼が溶けていた。
 床に寝転がって腕を投げ出す。僕の手首はこんなに細かっただろうか。色も白いし、女のようで、嫌気がさすほどだ。


 今年は密告しないでやろうかと、頭の隅で僕は思った。





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